暴走族と政治活動家の根源にある自己確立
暴走族と政治活動家を一緒にすることなど、それこそ政治活動家を激怒させそうなものであるが本質は同じである。
それは単に短気であるとか、考えが足りないといったことを言いたいわけではない。もちろん、そういった側面を否定するわけでもないが。
「自己確立」全てはここに起因する。
間違いだと叫ぶ双方の声が聞こえる。ちょっとだけ待って欲しい。
自己確立とはそのまま、自分の存在というものの定義づけ・意味づけに用いられる言葉だ。人は生まれてすぐにこの自己確立に走り、そして迷う。人々が自己確立に奔走する姿勢を持つことは確かだ。
しかしながら、私はここでは暴走族と政治活動家に絞った話をしている。なぜか。
彼らの原動力が自己確立の次の段階、すなわち「多数決」にあるからである。
こう言ってみると、彼らの存在は更に否定されたかのように見える。世界的に見ても政治活動家の存在は否定的にとられることが多く、言わずもがな暴走族など居なくても誰も損はしない。
そんな彼らを相手に多数決を持ち出すこと自体がナンセンスな様相を帯びていることは確かだ。
だが、彼らはその逆に生きている。
マイナーであること。マイナーでありながらも、自己を持つこと。こういった思想、言い換えるならば意地に全てを賭けている。そして、その賭けを拠り所にして日々を生きている。馬鹿げた話だと思うかもしれないが、彼らは真剣である。
彼らにその自覚はない。マイナーであることは自覚していても、それが自己を形成する要素になっているなど思いもしないだろう。お笑い草だ。しかし確かに思考プロセスにそれは組み込まれている。暴走族であっても、政治活動家であっても、この基準に押し込むならそれらは同類なのである。
憤慨する声が聞こえる。結構、ところで私に憤慨してどうする。諸君らの崇高なる信念は私を相手するために形成されたのか。それとも行き場をなくして我慢ならぬ拳でもあると言うのだろうか。なんにせよ悲しい結末ではないか。
かくいう私も、自己確立に失敗した一員なのだろう。声を振り上げる場所が、騒音をまき散らす場所が、数フィートずれているだけの仲間なのだ。仲良くしよう。おわり