曲学阿世の徒
古い中国の書物に上記の言葉は現れました。
意味は
学問上の真理をまげて、世間や権力者の気に入るような言動をすること。
曲学阿世の徒を非難すべきものとして、習ってはいけないものとされました。
目指すべきは
正しく学問に励み、それに沿って発信を行う人物になること。ということなのでしょうか。
そんな言葉が生まれて二千年以上の月日が流れて現在に至ります。
当時からは考えられないほどに文明は発展し、学問の形態も進化いたしました。
他国の言語を学ぶことも容易となりました。
言語を知らずとも諸外国で起こる事件の詳細を知ることが出来ます。
人々の教育思想は盤石のものとなっているはずでした。
しかしながら、今の人々はこの曲学阿世という言葉をもう一度考えねばならなくなっています。
SNS時代の今、言葉は乱暴に飛び交います。
根拠のない情報に乗せられる形での扇動、
疑心暗鬼に陥り芯を持った意見がない人、
特定の思想に帰結するように過程づけてしまうという行為など、
正しいとは言い難いことが起こっていることを皆様も承知のはずでしょう。
そのうちに、議論のために議論をするような幼稚な人たちまで出来上がってしまいました。
物事を深く学び、同じような志を持った者たちと真剣に将来を見据えた議論をすることは間違っていないでしょう。
しかし、素人が碌に調べもせず憶測や畑違いの経験則を基に行った議論のどこに意義がありましょうか。
どんな分野でも時間をかけて考えるほど答えを出すことが難しくなるはずなのです。
複雑に形成された事象は言うなれば木星のようなものなのです。
接地できる核を持たず、濃い霧のようなものに構成されていて中に潜れば潜るほど様相は想像しがたいものとなります。
それを遠巻きに眺めて「茶色い惑星だ」と言ってしまうことはなんの進展にも繋がりません。
正義か悪か、白か黒か、そのような単純な二択で物事を考えてはいけないのです。
懸命な人ほど結論には慎重になります。
詳しくない分野のニュースに対して、断定的で印象強い意見を言ってしまえる人たち、曲学阿世という言葉すら適切でないかもしれません。
彼らはまず、学ぼうとしていません。
ここであえて、具体的なニュースや人物の名前などは出しません。
言わずともわかることでしょうし、
私も学びの十分な人間ではないからです。
しかしながら、昨今の「学ばずとも結構である」といったような風潮には危機感を覚えたので、ここに覚書とした形で自分へ残しておきたい。おわり。