小説「欠けない月夜」

「9月って台風来る季節やったか」
先輩が箸で持ち上げたざるそばはどこまでも途切れず、箸は高く高く上がった。その箸の向こうでは、壁にかけられたテレビがニュースを伝えている。
「8月に来るイメージありますよね」
「せやろ、台風言うたら夏やし、夏言うたら8月やんな」
いちど蕎麦を落としてつまみなおす。持ち上げると先ほどよりも麺はしつこく絡み合っていた。

「まあ、9月になっても暑いもんは暑いですから」
「ちょっとずつ進む時間に、4つの季節だけを押し付けようって発想が偉そうでしたな」
諦めてつゆにいれた蕎麦はおおよそ溢れかかっていた。


家に帰ってから調べると、8月から10月にかけてはまんべんなく台風が発生していることがわかった。年によっては8月より9月のほうが台風の数が多い。人間の思い込みなどあてにならない。

その日に長袖を着るべきなのか半袖を着るべきなのか。
迷う季節は長い。

去年の10月20日はどちらを着ていただろう。なんとなく長袖な気がするが、それは本当だろうか。

「月見の銀次ってわかるか」
先輩は抱え込むように月見蕎麦を食べていた。箸を運ぶたびに卵を壊そうか壊すまいか悩んでいる。
「なんかの舞台役者ですか」
「知らんやろな」
月見蕎麦の中では卵の周辺が徐々に白く染まる。それは湖畔に重く敷かれた朝霧のようでもあった。出汁の温度で霧が広がり、流れているはずの時間を朧げにする。
「そういえばな、調べてん。台風は案外8月以外にも発生するみたいやぞ」
「そうなんですか、意外ですね」
知らないふりをする。

「みんなが意識せーへんまま消えていく台風もおるんやろな。申し訳ないなって思うわ」
黄身の中に箸が差し込まれる。黄身が漏れ出して一面を黄色に染めていく。薄まりながら広まりながら、色も味も全てを変えていく。雲間に浮かんでいた月は、手元を照らして満たす。

「いい景色だ」
「たかが蕎麦じゃないですか」
「やっぱ知ってるやんけ」
「なにをですか」
「ははーん、さてはオメエ、中辛のサブだな」
「会話をバグらせるのやめてくれませんか」

その日の夜、浅く出た月はUFOになっていた。

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