愛することを、やってみる

ー恋っていうのは、細胞でするものなんだよ。自分が恋をすると思っただろ。違うんだよ。

二度目の大学受験を目前に控えたある日、予備校の授業で先生はそう教えてくれた。英語の先生だったけど、構文の読み方や読解テクニックなんかはほとんど教えてくれなくて、代わりにラテン語とか、ダーウィンの進化論の超解釈の話なんかをしてくれた。翌日の模試には役に立たなかったけれど、それらはまるで押入れにしまった子どもの時のおもちゃみたいに、今も心の中でじわりと光を放っている。入試で使う知識を頭に入れるのとはまた違う、「学ぶこと」の面白さを教えてくれる先生だったから、いつも楽しみに授業に出ていた。

でも、それを言われた時は、何のことなのかさっぱり分からなかった。
分からなかったからこそ、何年もずっと頭に残り続けた。

今なら分かる。
恋とは理不尽なものだ。

例えば、恋人がいる人を好きになった時。
どうせ好きになるなら、好きになってはいけない人じゃなくて、両想いになれる人を好きになった方がきっと幸せになれるのに。
受験勉強に集中しないといけない時もそうだ。数列の問題文を眺めていると思ったらいつの間にか、気になるあの子のことを考えてしまう。勉強に集中して、合格してから好きな作った方が効率がいいのにね。

動物としての自分が、無意識の、DNAのレベルで求める相手を目の前にした時、全身の細胞がうわっと湧き上がり、ときめいたり、ドキドキしたり、クラクラしたりする。
ある程度紛らわすことはできても、パッと消し去ったり、退屈な時にヒョイと引き寄せたり、なんて便利に扱わせてはもらえない。
「恋」は、意志でどうにかできるものじゃない。

でも「恋愛」なら、自分の意志でどうにでもできると思う。

恋に愛がくっついて恋愛。

その「恋」は、私の「恋」じゃなくても良いんじゃないか。


今年のお正月はずっと『バチェラー2』を観ていた。
バチェラーとは、Amazonプライム・ビデオで配信されてるいる、婚活ドキュメンタリー番組だ。高収入エリートイケメン(バチェラー)を20名の女性で奪い合う。回を追うごとに女性はどんどん脱落していき、最後に残った1人が、バチェラーと結ばれる。

最後の2人にまで絞られた時、ある女性が言った。

「彼に出会う前から、バチェラーで出会った人を絶対に好きになると信じていた。」

好きになることって、信じてどうにかなるものなの?
出会ってみないと分からないんじゃないの?

始めは、疑問符だらけだった。
今は、半信半疑。

1人の人と一緒に居続けるというのは、自分の覚悟次第ということなのだろうか。愛は「運命の相手」じゃなくて「自分で選んだ相手」と育むものであるからして、極論、自分さえ覚悟を決めれば誰でもいいんじゃないだろうか?ともすると、今すぐ表に飛び出してその辺を歩いている人を捕まえてパートナーにする、なんてことも可能なのではないか?もちろん、捕まえた人の合意が得られればだけど。
と、思考を最極端まで追い込んでみて、ふと我が身を振り返る。

少し前までの私は、ちょっと気に入らないことがあると「今の相手で本当に私、幸せになれるのかな…。」なんて、どこぞの悲劇のヒロインを気取る悪癖を持っていた。
「私、幸せになれるのかな…。」じゃなくて、私が相手の良い所にもっと目を向ける。結局今自分ができることってそれしか無いんじゃないかな。

多少ムカついても、ぐっと堪えて許し合う。勇気を持って本音を言う。耳の痛い言葉も受け入れる。どれも「好き 」という感情が溢れるだけでは出来ないことだ。でも、自分の都合の良し悪しを超えて、相手を大切に思えるようになると「この人と出会えて良かったな」と思えたりする。こういうのを愛と呼ぶんじゃないかな、と思う。

だから私は、目の前に居てくれる相手に全力で感謝したい。
それでもっともっと、好きになる努力をしていきたい。

愛のために戦う相手、それはきっと自分だ。

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