【千葉の光もいい】 田中一村 展 奄美の光 魂の絵画 東京都美術館
田中一村は2018年(訂正・2021年だった)の千葉市美術館での展示を見逃したことをじわじわ後悔していたのだ。
しかし今回上野で行われる展示もよくよく調べると、千葉市美の学芸員さんがメインの監修であり、つまりこれもう千葉市美の出張展示だ!と解釈してしまった。うきうきで金曜夜の夜間開館へ。
メインビジュアルも奄美大島の作品だし、一村といえば奄美大島なのだろうが、
千葉市、現在の千葉駅から蘇我駅の間付近に在住していた時期もあり、千葉市美が地元の作家としても推している。
都美術館は今回も撮影禁止のため作品の画像はない。
(都美術館では撮影NGだったデ・キリコ展が神戸に巡回した後は撮影OKとなっているのを見ると、都美術館は人の滞留や映り込んだ人の肖像権のトラブルを防ぐために撮影禁止にしているのかな、と最近感じている。作品そのものの著作権からではないのでは)
一番ぐっときた作品
千葉寺時代
展覧会の趣旨、奄美大島からやや外れるが千葉市時代の作品が一番ぐっと来てしまった。
千葉寺の風景三部作は本当に素晴らしくて、懐かしくて、暖かくて…。
気がついたら鼻の奥がスんとしてきて、眼の前の絵画がにじみ始めた。
ま、まずい、泣く!
なんとも形容し難い、暖かい空気の絵画。
草の感じ、木の特徴、空の感じ。人の姿。
絵なのに空気をしっかり感じる。
泣きたくなるような清々しい絵画だった。
悲しみではなく、寂しさでもない泣きたさ。
心に響くってこういうことか。
自分がこの風景が胸に染みるには個人的な背景も大きい。
プロフィールにも記してあるが自分は幼少期に千葉市で暮らしていた。
ほんの10年、物心がついてからは7年ぐらいほどで東京に住んで着る時間のほうが遥かに長いが、子供の頃の最初の10年の記憶は濃い。
千葉寺にはよく行ったとかそういう直接的な記憶ではなく、道路標識に出ていたり、よく乗る路線バスで耳にしたりしていたのだと思う。(◯◯へはこちらでお降りください、みたいな車内放送などで)地理的に千葉寺と言われると、千葉駅に近いんだ!というのはわかっていて、うきうきしたものだ。
千葉そごうの食堂でお昼ごはんを食べる土曜日は子どもの私には特別な日だった。
一番近い「都会」の街がモノレールが走る前の千葉駅だった。
でも自宅の周りはずっと田園風景で。
そんな温かな思い出補正も手伝い風景の木の感じ草の感じが琴線に触れたのだと思う。あぁ千葉だなぁと思う風景。
植物の地域性と風景(余談)
写真や風景画に地域性を感じる、ってよくよく考えると面白い。
例えば私と夫は育った地域が違うので、草花や植えてある木の話にだいぶズレが起きる。
私が通学路に植えられていた枇杷の木や柘榴、夏みかんの木の話をすると、夫は全く見た事が無いという。カラスウリの事も知らなかった。
逆に夫はリンゴの木やプルーンの木に咲く花を見ていたと言う。プルーンと言われて日本でもとれんの?と仰天したのは20年前の私だ(ミ◯プルーンのせい。勝手にカルフォルニアのイメージ)。
東京で生活し始めた頃は、栗林が多くて驚いた記憶もある。下校の際に石蹴りではなく、イガ(栗の)蹴りをしていた程度に町中に転がっていた。
だいぶ宅地になってしまったがそれでも5月になると近隣で花の匂いが未だにする。
どんぐりヒエラルキーでMy上位にいるクヌギの実は東京だとそんなに珍しくないということも驚いた。あと秋になるとすぐ通りが銀杏臭くなるということも。
この様に通ってきた道、風景が違うと懐かしさや郷愁を抱く風景も変わる。
現在育てている息子2人は大人になってからどんな風景に郷愁を抱くのだろうか。
この地域を描いた絵は残っているだろうか。
仁戸名蒼天
パッと読めるだろうか?「にとな」と読む千葉の地名である。
馴染みのない地名だとこの読み方でよいのか不安になるのだが、この漢字が宛てられれいることを知る前から「にとな、にとな」と言っていた、聞いていたのでわかった。この地名も幼少期に馴染みがある。
↑上記リンクに該当絵画の画像あり。
仁戸名には昭和49年から厚生年金が運営していた大きなスライダーのあるプールがあった。
通称、仁戸名のプール。夏になると自転車で行ける市民プールとは別に父が車を出して1日中遊びに連れて行ってくれたものだ。
プールの休憩時間にこういう時しか買ってくれなかった日清カップヌードルを食べた。あの美味しさが忘れられない。冷えた体に染みる。
療養所からの風景ということだが100年近く前からこの仁戸名の地は療養の地だったのだな。今も国立の医療施設がある。
厚生年金プールは解体され、ゴルフ場?練習場になってたはず。それも今は違うかも。プールは2010年ごろまで運営していたらしい。うら寂しく、運営していたHP用ブログが残っていた
一村の「仁戸名蒼天」絵画の中の空の青さは、私が浮き輪から眺めた空の青さと通じているのかもしれないと思うとここでもジワッと目頭が熱くなる。
東山魁夷と同期
東山魁夷等と同級で芸大に入学していた田中一村。
画家への道筋は全く違う歩みだったが2者とも千葉の風景の佳作を残している。その偶然と千葉の風景を心象風景としている自分としては不思議な気持ちになるのだ。
日曜美術館の功罪
田中一村が再考されるきっかけとなったのは84年に放送されたNHKの日曜美術館だったそうだ。
出口付近に当時の放送のダイジェストが流れていた。
田中一村が亡くなったのは77年なので7年しか経っていないその放送に収められていた一村の住居は、なんとなく生々しいというか「史跡」に昇華されていないまだ「廃墟」感あふれる姿だった。
こういう再発見やいろんな地域の美術の情報を放送している日曜美術館だが、唯一の功罪は放送後の展覧会来場者がどっと増えることだろうか。
Impressionがバク上がりすればConversionもふえる。
いかに放送日程より前に観に行くか、が肝になっている。
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