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趣味、職業、政策論研究について−個人的な思索−

趣味を職業にするということ、職業を趣味にするということ、職業がエンターテイメント化しているという話。

最近は、あまり聞かないが、「趣味を職業にする」ことの是非議論から、色々と考えたことを話したい。最近、ビデオゲームとか、けん玉とか、趣味レベルのエンターテイメントが職業になっている。それで飯を食っている人が実際にいるんだから、本当に趣味と職業の境界って曖昧になってきているよね、というところから思い出すように取り留めもなく書き始めた。

「趣味を職業にする」とはどういう意味か。まずは、「趣味」と「職業」それぞれの意味を簡単に考えたい。

この記事に対して特に信用性は求めていないので、Wikipediaに書かれていることを元に見てみることにする。

まず、趣味について、

1.人間が自由時間(生理的必要時間と労働時間を除いた時間。余暇)に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。道楽。

2.物の持つ味わい・おもむき(情趣)を指し、それを観賞しうる能力(美しいものや面白いものについての好みや嗜好)のこと(英:taste)。調度品など品物を選定する場合ニオ美意識や審美眼などに対して「趣味がよい/わるい」などと評価する時の趣味はこちらの意味である。

おそらく趣味を職業にするという時に使われる意味は前者かなあ。

続いて、職業はどうか。

職業は、日常的に従事する業務や労働など、技能、知識、能力などをまとめた一群の職務のこと。職、生業、仕事とも呼ばれ、日本では労務に従事することを就職、就労という。生計を立てるための仕事も職業とされる。

趣味を職業にすると言うとき、ここで一つ矛盾が生じると思う。趣味は、労働時間以外に好んで習慣的に繰り返しおこなう行為であり、職業は、いわゆる労働、生計を立てるための仕事である。だから、趣味を職業にすると言うと、労働時間外に好んでする行為を労働にするという、解釈が難しい言葉ができあがる。

これは、「労働時間外に好んでする行為を、労働と化する」のか、「労働時間外の行為を労働時間中に行う」のか。まあ、後者は意味不明なことになる。

趣味を職業にするのは良くないと言われる理由として、今まで道楽だったものが、労働と化するということである。道楽は楽しいこと、労働はつまらないこと、というのを前提として考えると、趣味を職業にするのは良くないという答えが導かれるのだ。

なるほどな、と思う一方で、この答えを飲み込めずにいるのである。

確かに、趣味を職業にするのは良くない、と言われる根拠となる事例はたくさんある。サラリーマンから画家に転身するとか、カラオケ好きが歌手になるとか、料理好きがレストランを開業するとか。それはそれで良いのだけど、それだけで生計を立てることができなかったり、稼がなければという強迫観念やら何らかの理由によってその行為を純粋に楽しむことができなくなったり、活動時間を100%趣味に使っていると飽きてしまったり、趣味を職業にするのを良しとしない様々な要因が考えられる。

だから、趣味は趣味で楽しんで、仕事は仕事としてはっきりと区別すると。

そういう人がいても別に構わないが、その人は今やっている仕事・職業を道楽として楽しむことはないのだろうか。趣味を職業にするのではなく、職業を趣味にしている人はどれだけいるのだろうか。

職業を趣味にすると言うと、労働を労働時間以外に繰り返し好んで習慣的におこなう行為にするということになり、同じくおかしな日本語になるが、これも実現可能である。こちらの事例もたくさんあることはわかっている。

スポーツやアート、芸能などは、そのジャンルの専門家以外にも、多くの人にとって趣味の領域に入るのではないだろうか。一方で、工場労働やオフィスワークといった一般的に労働と見なされるジャンルにおいて、趣味として従事する人の数は、スポーツやアートのようなエンターテイメント産業に比べ少ないだろう。水泳が趣味というのは理解できるが、書類管理が趣味という人にはなかなかお目にかかったことがないという具合に。

書類管理をスポーツのように楽しめとは言わないが、自分の仕事をどうにか遊び感覚で出来ないものだろうか。遊び半分ではなく、子供の頃、遊びに夢中になった時のような気分で仕事ができたらそれが最高ではないかというのが純粋な想いだ。それを実現する最も簡単な方法は、楽しい仕事を探すのではなく、今の仕事をエンターテイメント化する努力をすることだ。

提言として挙げたいことは、一般的にエンターテイメントと呼ばれるジャンルの外側にある職業をエンターテイメント化していくことにある。

大学の研究で、ある地域の空き家再生事業について、その活動の価値のありかを追っていた。この空き家再生活動には地域政策論的に価値があることが認められる。空き家再生事業の展開により、新コミュニティの誕生、空き家戸数の減少による治安改善、観光産業の活性化などが起こった。しかし、空き家再生そのものを外観しただけでは、この事業の本質は理解できない。つまり、単純に空き家を改修するだけではこれほど世間で注目を集め、地域の産業や人々の生活に影響を与えるには至らない。町の工務店がただ空き家改修するだけでは世間で注目を集めることはほとんどないだろう。

しかし、実際に、調査のため訪ねた地域で行われる空き家再生活動は、地域でその存在を知らぬ者はいないほど影響力を持つようになった。その活動は全国に知れ渡り、関心を持った人々が訪れている。では人々をそこまで惹きつけるその価値は一体どこにあるのか。

一つの答えは、この事業がエンターテイメント化していることにあるということだった。古くなった空き家を一部解体したり、修繕して再び使用できる状態にするという行為が人々の娯楽として受け入れられ始めているのだ。これまで、空き家の改修を行う者といえば、建築の専門知識を持った大工や建築士、その下で働く労働者に限られていた。だが、今では人々は労働時間外にわざわざ金を払ってでもその行為をしようとしている。それは必ずしも将来、建築家を目指す人に限らない。実際に僕と空き家再生活動に参加した人は、文学を専攻する大学生、専業主婦、IT企業のエンジニア、薬剤師、公務員、介護士、フリーターなど、普段建築とは無関係の肩書きを持つ人が、工学部で建築を専攻している学生に劣らず多かった。彼らは決して金を払って労働者としてこき使われることを愛好する変態ではない。

この人たちは一体何をしに来たんだろうか。僕は、そこに空き家再生の本質的な価値があるのではないかと考えた。その答えが、先述のエンターテイメントだった。異なる肩書きを持つ彼らは、エンターテイメントとしてこの空き家再生事業に従事している。いや、従事しているという言葉は正しくないのかもしれない。彼らは、明らかに空き家再生のプロセス、あるいは、それに係る行為を楽しんでいる。そして、主催者側もその真意はともかく活動のエンターテイメント性は意識していると思う。

この事例から、仕事がエンターテイメント化している瞬間を見た気がした。エンターテイメントを享受する側、提供する側で、どのような違いがあるかはまだはっきりとは分からない。だが、この建築の一分野が確実に人々の道楽として受け入れられている実態を見逃すわけにはいかない。この現象は他の職業分野でも確実に起こっているはずだ。

あらゆる職業がエンターテイメント化、趣味化しようとしているのではないか。空き家改修という建築の一分野でも既に起こっている。空き家再生が政策論的に価値があるというのも、単純に空き家を改修に係る制度づくりや補助金を出すことは必ずしも重要ではなく、エンターテイメント性を持たせること、つまり、人の感情をいかに刺激するかということが重要だ。全ての価値は最終的に人の感情や感性といったところに集約されていくのではないかと思った。ただ、そういうのを行政の政策としてやるかどうかは別の話だが。

最初は、空き家対策について、広く見ても地域の都市計画について提言をするつもりだったが、一年半ほどの間で、これらの課題のヒントは土地の環境に限らず、人によるところが大きいのではないかと思うに至った。そして、それを機能させるには人の感情を掴むこと、つまりエンターテイメントが鍵となる。昨今、活動を成功させていると言われる事例の多くは、そのエンターテイメントと社会的貢献とのバランスが絶妙なんだろうと思った。

まあ、なかなかこれを証明するのは難しいなあ。まちと政策について、まだまだ勉強しないといけないことはある。



ひとまず、お疲れ様でした。


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