神さまなんて大嫌い!⑥
【汪楓白、人生初の悪所落ちするの巻】
そんなこんなで、翌日。
僕は朝も早から神々廻道士に呼び出され、迎えに来た蛇那と一緒に彼の居室へ向かった。
嫌な予感がする……まさか、もう昨夜の演戯がバレたのか? 僕と琉樺耶たちが、裏で協力関係を結んだことも、すでに露見してるのか? だとしたら、ヤバい……ヤバいぞ!
啊! どっちみち、僕の首輪を見たら、一目瞭然か!
〈楓白……あくまで、平静を装うんだよ。心を水面にたとえ、細波立たぬよう律するんだ。これだけ乱暴にあつかっても、引き千切れず、宝玉も壊せず、ビクともしないってコトは、今のところそれしかない。私たちの計画が今後、上手く往くかどうかは、あんたに懸かってるんだからね。くれぐれも、ボロを出すんじゃないよ。落ち着いて、しっかりおやり〉
琉樺耶……ムチャだよ。
他人が云うのはたやすいけど、当事者にしてみれば……とくに僕のような、雑念やムラッ気の多い人間にしてみれば、心を動かすなって方が無理難題で、不可能に等しいんだよ。
啊……朝っぱらから、絶体絶命。
憂患にさいなまれる僕は、それでもなんとか蛇那に続いて、長い回廊を怖々と歩み、ついに神々廻道士の居室前へ……ここで、蛇那が振り向きざま、悪戯っぽく笑って云った。
「昨夜のアレ……凄かったわねぇ。今度は私と、手合わせしてよね、シロちゃん❤」
「はい?」
蛇那は、それだけ云い残し、さっさと今来た回廊を戻って往く。
と、その時である。
――バァンッ!
いきなり、居室の頑丈な鉄扉が開き、中から神々廻道士が現れたのだ。
しかも彼は、あまりにも意外な格好をしていた。いつものボロけた道服姿ではない。
縹色の長袍、白地の筒細袴、七宝細工の飾り帯、その上、ボサボサ頭は、きちんと元結髷にまとめられ、金の笄まで挿している。無精髭も綺麗に剃り、こうして見ると実は彼が、なかなかの男前だと判る。とにかく今日の神々廻道士は、見ちがえるほど颯爽としている。
「往くぞ、シロ!」
「は!? なに!? なんですか、その格好!? 往くって、どこへ!?」
呆気に取られ、質問攻めにする僕へ、神々廻道士は、驚きの発言を返した。
「決まってんだろ、悪所落ちだ。そう云うワケゆえ、琉樺耶! 亭主を借りるぞ!」
僕の肩越しに、意外な人物へ声をかける神々廻道士だ。
えぇえ!? る、琉樺耶!? まさか、心配して、僕のあと……ついて来てたのぉ!?
「ご、ごめんなさい、旦那さま……おそばを離れるのが、名残惜しくて」
背後の支柱の影から、おずおずと現れたのは、確かに琉樺耶である。
よもや、看破されるとは、思っていなかったのだろう。
彼女は、しどけない寝巻姿のまま、バツが悪そうに、神々廻道士と僕の顔を見比べる。
そして琉樺耶もまた、別人のような神々廻道士に驚き、大きな目をさらに瞠っていた。
「よかったな、シロ。従順で淫乱な女房が手に入ってよ」
神々廻道士は、僕の背中をポンと叩き、軽口(聞きようによっては非道いぞ)を放った。
「いや、それはっ……ちが」
僕は慌てて否定しようとしたけど、琉樺耶に睨まれ急遽、対応の変更を余儀なくされた。
「ま、そうですねぇ。ホント、従順で、淫乱で……哈哈哈」
神々廻道士は、そんな僕らの目配せに、気づいた風もなく云った。
「とにかく、往くぜ」
神々廻道士は、相変わらず酒瓢箪だけは手放さない。絶えず鬼去酒をあおりながら、僕の腕を引っ張る。琉樺耶も僕らを止めるどころか、満面の笑みで送り出そうとする始末だ。
「往ってらっしゃいませ、旦那さま」
「えぇ!? 本当に、いいの!? だって、朝から悪所って……奥さんが!?」
「別に、かまいませんわ。旦那さまの、お好きなように」
なんの衒いもなく、サラッと云ってのける琉樺耶だ……喂、喂、おい!
こここそ、奥さんの出る幕でしょう! 神々廻道士に、怪しまれちゃうよ!
だけど、当の神々廻道士は、妙な勘繰りや、猜疑心をいだくこともなく、豪快に笑い飛ばす度量の深さすら、持っていた。いつもとちがう……本当に、どうしちゃったんだ!?
「哈哈! 嫉妬深くなく、物分かりのいい女房で、本当によかったな、シロ!」
僕は、にこやかに手を振る琉樺耶を、そして満面の笑みを湛える神々廻道士を、怪訝な表情で見つめていたが……結局、最後は、しびれをきらした神々廻道士に、無理やり(やっぱりね)廟から連れ出され、着の身着のまま、〝悪所落ち〟する破目となってしまった。
ちなみにこれも、後日談だが――、
「ところで、悪所ってどこだい、茉李」
「おねぇたまってば、本当に初心……きゃあわいい❤」
「なにが云いたいのさ。早く教えなよ」
「悪所ってぇ……女が肢をおっぴろげるトコなのぉ❤」
「……肢を、おっぴろげるだってぇ?」
「うん! おっぱいも、もみもみちたい放題なのぉ❤」
「おっぱいも、もみもみって……は?」
「しゅっぽんぽんで、あんあんって、ちゅごいのぉ❤」
「啊! 要するに、遊郭のことだね!」
「犬戯けとか、菊花責めとか、尺八とか……うふふ❤」
赤らめた頬を、両手で押さえつつも、うら若い娘にあるまじきセリフを放つ茉李だ。
琉樺耶は頭をかかえ、ヤレヤレと肩をすくめながら、恥知らずな妹分をたしなめた。
「……茉李、仮にも女の子なんだから、口の利き方に気をつけなさいね」
それから琉樺耶は、あらためて廟の外の僕らを見やり、こんなことをつぶやいたそうだ。
「それにしても……こんな早朝から遊郭とは、妙だね。あいつ、大丈夫かな……」
それにしても……こんな早朝から遊郭とは、妙だぞ。神々廻道士は、なにを考えているんだろ。いきなり、あんなオシャレして、馴染みの遊女でもいるのかな。いや、待てよ?
あるいはこの男が、ああもがめつく人々を騙し、大金を騙し盗っているワケは、そこにあるんじゃないだろうか! 実は、夫婦約束をした女性が、借金のカタに売り飛ばされてしまい、彼女を苦界から救い出すため、心を鬼にして、悪人になりきり、あんな非道な手段を用いての、身請け金集めを強硬……もしそうだとしたら、ちょっと同情しちゃうかも。
でもなぁ……これって僕の考えすぎだろうなぁ。そんな、都合のいい展開は、あまり期待できなさそう。だって、こいつの傍若無人さは、どう贔屓目に見たって、本物だもの!
おっと、いかん。また、悪癖が出た。とにかく、僕は神々廻道士の背中を追った。
にぎやかな市場を抜け、川沿いの土手道を進み、宿場町をいくつも通過し、渡し船で対岸へ向かい……神々廻道士に黙って追従する内、やがて前方に、煌びやかな黄金の楼門が見えて来た。えぇ――っ!? ここって、まさか……噂に名高い悪所『孔雀大酒楼』!?
いかつい門番に、軽く手を振り挨拶し、神々廻道士は堂々と、超高級遊郭へ入って往く。
今の様子じゃあ、顔見知りっぽいぞ!? 常連客なの!?
神々廻道士は、豪奢な建物の入口で、躊躇する僕に気づき、やむなく戻って来た。
「喂、早く来いよ」
「だ、だって……ここ!」
恐る恐る、見世の楼門に掲げられた『孔雀大酒楼』の、大袈裟なほど巨大で派手派手しい看板を、指差す僕だ。すると、神々廻道士は突然、瞠目し、僕の人差し指をつかんだ。
「ところで、その指はどうした!」
「へ? 指、ですか? えぇと……啊!?」
あらま! そう云えば……昨夜、神々廻道士に折られたはずの指が、もう治ってる!
「顔や首筋の、引っかき傷は、琉樺耶にやられたのか?」
「へ? 引っかき傷? えぇと……啊!?」
おやま! しかも……昨夜、琉樺耶に懐剣で切られたはずの傷が、もう治りかけてる!
「なんで……おかしいぞ! どうして、こんな……」
困惑する僕……神々廻道士は、ますます険悪な表情になり、僕の首輪を乱暴につかんだ。
ま、まずい! いよいよ、バレる! 落ち着け、楓白! 平静だ……平静を保て!
「お前さ……」
「は、はい!」
僕の首輪の宝玉には、さまざまな文字が、浮かんでは消え、浮かんでは消え、色味も多彩に目まぐるしく変化している。琉樺耶……やっぱりダメだ! 静謐な水面になんて到底、なり得ないよ! 僕の心には今、大津波が押し寄せてるんだ!
啊、天帝君! せめて来世では、凛樺の生まれ変わりと、添いとげられますように……僕は瞑目し、死を覚悟した。
ところが!
「……ま、いいや」
おっとぉ! 僕は肩すかしを食らい、思いっきり、前につんのめった。
「なにしてんだ、シロ。早く来い」
「えっ……あ、はぁい!」
僕は体勢と、乱れた心を立てなおし、急いで神々廻道士のあとに続いた。
だけど、怪しいぞ! かえって、怪しすぎるぞ! 一体、なにを企んでいるんだ!
磨き抜かれた白い大理石の床や、美々しい桃源郷の壁画、玲瓏な音色を奏でる珠簾など、煌びやかに華飾された玄関口は広く、あらゆる客を魅了し、迎え入れる体勢だ(尤も、金さえあればだけど)。神々廻道士は入ってすぐ、今度は見世の遣り手婆と、なにやら話しこんでいる。一体全体、なんだってんだ? 僕が落ち着かぬ様子で、キョロキョロしていると、そこへ、総金箔の衝立で仕切られた広間の方から、こちらに気づいた遊女が、供を従え静々と歩いて来た。
僕は思わず、その艶姿に息を呑んだ。なんて美しい女性なんだ!
「あら、哥さん……今日は、早いのね。そちらのかたは?」
淡い桃色の襦裙に、萩を刺繍した薄紫の大袖衫、金輪細工の帯、羅紗の領巾をかけた女性は多分、太夫級なのだろう。鼻筋の通った端整な顔立ち、形のよい眉、麗しい朱唇に、大きな紫紺の瞳、複雑に編みこまれた黒髪にも、萩の簪が揺れ、とにかく神々しいまでの美しさだった。その上、彼女が動くたび、仄かに漂う白檀の香り……香を焚きこんでいるわけじゃない。どうやら彼女、【檀族(生来より白檀の香気を放つ)】の出身らしいぞ。
うっとりと彼女に見惚れる(ごめん、凛樺!)僕を、神々廻道士は簡略に紹介した。
「コレはシロ。それより、今日は奴が来る日だろ? 準備はできてるのか?」
コレはシロって、云い方! 僕は犬猫じゃないんだぞ! 人をなんだと思ってるんだ!
だけど、後半の部分……一体、なんの話だ? 今日は朝から、疑問符ばかりだ。
「悪いけど……あの話は、断ったわ」
「なんで?」
「嫌だからよ。他に理由が要る?」
「へぇ、変わった女だな……ま、いいや。早いトコ、白菊太夫を呼んでくれ」
「哥さんったら、いつも白菊ばっかり……タマには、私のことも揚げてよ」
「冗談だろ? クソの色まで知ってる女を? いいから、早く白菊を、呼んで来い!」
「判ったわよ……呼べばいいんでしょ! あんな拝金主義の女狐、どこがいいんだか!」
うぅむ……ただいまの会話から判ったことは、彼女が身請け話を断ったってことと、この二人のつき合いが、かなり長いってこと、さらには彼女が、神々廻道士に好意をいだいてるんじゃないかってこと! まぁ、傾城に誠なし、なんて言葉があるくらいだから、どこまで信じていいか怪しいけど、彼女を見ていると、本気のような気が……もしかして演戯? そう、演戯だよね。だってこんな男、どこがいいのか、それこそ判らないモンなぁ。
おっと、また深沈と、物思いにふけってしまった。いかん、いかん。すると神々廻道士は、そんな僕の肩をつかみ、彼女の前に押しやると、とんでもないことを云い出したのだ。
「お、そうだ! お前さ……ヒマなら、こいつの相手してやってくれよ!」
「えぇえ!? いや、ちょっと、待ってくださいよ、師父! 僕には、妻が……」
そ、そうだ! 凛樺を裏切ることだけは、断じてできない!
「その女房から了解を得てんだ。かまうめぇ。大体よ、操立てなんてモンは普通、女がするこったぜ。クソくだらねぇ。昨夜みてぇに姦って来い。心配すんな、揚げ代は俺持ちだ」
「そういうことじゃなく、ですね!」
僕が云ってるのは、本物の妻のことだ!
「なんだ? 琉樺耶に出しきって、スカスカか? いいから、しぼり出せ!」
ひぇ――っ、なんちゅう……だから云い方! それに僕、琉樺耶とはなにも……むぐっ、まずい! 心を読まれたら、今後の計画に差し障る! 無我の境地! 無我の境地だ!
「だ、だけど……」
とは云うものの、やっぱり僕は気が多い……もう、バレてるんじゃなかろうか。だって、先刻から、もう好き勝手なこと、考え放題だもの……ただ、それにしてはおかしいよな。
だって神々廻道士、僕を怒鳴ったり、殴ったりする気配が、全然ないんだよ?
その上――、
「判んねぇのか? これは、お前へのご褒美なんだよ! 喂、雁萩太夫! さっさとこいつを連れてけ! たっぷり、可愛がってもらえよ! こいつ、こんな冴えないツラしてっけど、体伎の方は、腰が抜けるほど凄ぇらしいからよ……案外、病みつきになるかもな」
今のセリフが本当なら、まだ気づかれてない? なんで? どうして? やっぱり今日は、疑問符が大発生だ! もしかして首輪が壊れたの? 僕は神々廻道士の目を盗み、僕の胸元に垂れる宝玉へ、恐る恐る視線を落とした。だけど色味や文字を確認する間もなく、《雁萩太夫》と呼ばれた美女が、僕の手を優しく取り、自分の居室へ、いざなおうとした。
「哥さんの、大事な人なら、仕様がないわね……さぁ、シロさん。いらっしゃい」
艶然と微笑む雁萩太夫。遊郭に身を置いてるワリには、清楚な印象だなぁ。スレてないって云うか……でも檀族で、なおかつ、これだけの美貌をそなえてるんだから、さぞかし売れっ妓なんだろうなぁ。またまた物思いにふける僕……と、その時、奥の間から駆け出して来た遊女が、僕を突き飛ばすくらいの勢いで、いきなり神々廻道士の首に抱きついた。
「きゃあ、劉晏さまぁ! 待ってたのよぉ! でも、こんな朝からなんて、ホント、好きなのねぇ! でも、いいわ! 白菊、精一杯、頑張っちゃうからぁ! 覚悟してよぉ!」
うわぁ、けばけばしい……雁萩太夫とは、大ちがい。色香は凄いけど、手なれた感じが、どうもなぁ……白菊太夫か。ん、だけど、待てよ? 今、確かに聞き逃せない一言が……。
「劉晏?」
「趙劉晏。哥さんの名前じゃない……なに、あなた、知らなかったの?」
「い、いいえ! 知ってますよ、勿論!」とは、云ったものの、《趙劉晏》だって!?
そいつは初耳だ! いや、そもそも、僕は神々廻道士について、なんにも知らないんだ。
名前……は、今知ったけど、年齢も、出身も、郷里も、経歴も、本当に、なぁんにも!
啊……僕ってば、凛樺のことで頭が一杯で、神々廻道士の人となりを、なにひとつ調べもせず、飛びこんでしまったんだな。悪魔の廟へ……莫迦! どうしてこう莫迦なんだ!
冷静になって、よくよく考えてから行動にうつしていれば、こんなことには……こんなことには……こんな、こと、には……七色に煌めく珠簾の奥で、大袖衫を脱ぎ衝立へかける雁萩太夫と……天女の如き美貌の人と、同衾する機会を得られるなんて、こんなことには……絶対にならなかっただろう! 彼女は早くも薄い襦袢姿で、豪奢な天蓋つき寝台へ腰かけ、僕を手招きしている! ど、どど、どうしよう……昨夜の琉樺耶とのニセ行為のせいで、まだ昂ぶってる僕としては、今にも欲望が……ダメだ、凛樺! 助けてくれぇ!
「さぁ、入って……私たちも、愉しみましょう」
「あ、あのぉ……雁萩太夫、さん?」
「しぃ……ここでは、余計なおしゃべりは、要らないの……体で判り合えるわ」
雁萩太夫は、棒立ちのままの僕を、やや強引に寝台へ招き入れると、フカフカの敷布へ、横たわらせようとした。多分、遊郭仕様なんだろうな。水衣ほどに薄い襦袢からは、彼女の形よい二つのふくらみが透けて見え、僕の下腹部は、いよいよ準備を整えつつあった。
「で、でも、僕には愛する妻が……」
「今だけは忘れて、私だけを見て頂戴」
雁萩太夫は、僕の長袍をまくり上げ、裾細袴の帯を素早く解くと、中でだいぶ窮屈な思いをしていた〝僕自身〟をくつろげた。そうして、僕のモノを目にするや、彼女は瞠目。
「大きいのね……」と、小声でつぶやいた。ひえぇ――っ! は、恥ずかしい!
頼むから、待ってくれ! じゃないと、僕……本当に、凛樺を裏切る破目に……啊っ!
「あぁっ……だ、だけど、僕は……ほ、本当に、妻を愛して……うっ!」
「あら、こんなに固くして、まだ頑張るつもりなの?」
そう云いながら雁萩太夫は、小さな朱唇を精一杯広げ、なんと僕のアレを……ダ、ダメだ! それ以上は云えない! こんな美女が、凛樺でさえしてくれなかった行為を、いきなり!? し、信じられない! でも、でも、でも! やっぱり、ダメだってば――っ!
「はわわっ! いぃいっ……いけません! ぼ、僕は、絶対に妻を裏切れないんだぁあ!」
僕は雁萩太夫の結髪をつかみ、乱暴に引きはがそうとした。
たとえ、凛樺には裏切られたとしても……僕は、僕は、僕だけは、待ち続けるんだ!
彼女が僕の愛情に、気づいてくれる日を! そして、戻って来てくれる日を!
雁萩太夫は、僕のアレから唇を離し、ジッと上目づかいに僕を睨んでる。
そして、しばしの沈黙……ハッ、まずい! 折角、太夫級の花魁が、ここまで奉仕しようとしてくれたのに、彼女を傷つけちゃったかな? 僕だって男だ、体は疼いて疼いて……でも、仕方ないよ! 体(とくに下半身)はどうあれ、今の言葉が僕の、嘘偽りない本心なんだから!
雁萩太夫は長嘆息をつき、寝台から降り立つと、大袖衫をはおりながらつぶやいた。
「……判ったわ。私の負け。嫌んなっちゃう。私って、そんなに魅力ない?」
「まさか! あなたは天女のようだ! 魅力のかたまりですよ!」
これも、僕の嘘偽りない本心だ。もう少しで、危なかったんだから……雁萩太夫の唾液で濡れたアソコは、優雅な白檀香を放っているし、下手したら彼女の口の中で爆発……と、とにかく! ヤレヤレ、この分じゃあ、またぞろ自分を慰めてあげなきゃならないな……男ってヤツは、つくづく面倒臭い生き物だよな……ハァ。でも正直、惜しかったよなぁ。
(すまない、凛樺! でも、僕は自分に嘘がつけないんだ!)
「何度も云いますけど、あなたは本当に、天女だ! いや、天女以上に美しい女性だ!」
僕は先刻よりも、語気を強めて、雁萩太夫に本心を伝えた。彼女は艶然と微笑する。
「社交辞令、ありがと。ところで、あの人……まだ、危険な汚穢仕事に手を染めてるの?」
「え? まぁ、えぇと……はい」
「相変わらずね。本当に嫌々やってるのか、怪しいモンだわ」
「はぁ……それって、ど、どういう、ことで」
「なんでもないわ。無駄話はこの辺にして、お酒でも如何?」
「い、いえ……せ、折角ですが、ご、ご遠慮させて、ください。まだ、昼間ですし……」
「ふふふ、あなた、哥さんの知り合いにしては、随分とお行儀がいいのね。正反対だわ」
垂れ幕で隠れた寝台の上、雁萩太夫に背を向けて、一人行為に没頭しながら、やんわりと断る僕だった。寸刻後、ようやっと小憎らしい〝小僧〟から解放された僕は、なんとも気まずい表情で、寝台を降り、雁萩太夫の座る円卓の斜向かいに佇立した。
すると雁萩太夫は、僕の(というか、男性全般の事情を)察してくれていたらしく、手水鉢を指差した。
汚れた手を洗えと、そういうことである。
「どうも、すみません……」
「べつに、謝ることないわ。そこまで愛される奥さまは、幸せ者ね」
「でも、逃げられましたけどね……」
「え?」
「い、いえ!」
手を洗い終わり、所在なげに立ち続ける僕に、雁萩太夫、今度は向かいの席を指差した。
僕は素直に従った。今、ここを出ても、どうせ神々廻道士に怒鳴られるだけだ。
「それで、ですね……師父のことなんですけど、実に勝手なお願いとは思いますが、今日のこと、上手く口裏を合わせて頂けませんか? 僕、情けないですけど、あの人にまったく頭が上がらなくて……云う通りにしないと、すぐ怒られちゃうんで、凄く困ってるんです。今日だって、僕の意志なんて完全無視。遊郭に、無理やり連れて来られちゃうし……」
「私のことも押しつけられちゃうしねぇ……はいはい。判ったわ。あなたの体伎は凄くって、四度は桃源郷を見たって、上手いこと云いつくろっといてあげるわよ。心配しないで」
いやいや、それは云いすぎだと思いますけど……でも、あんまり注文つけるのも気が引けるからなぁ……彼女の、太夫としてのメンツを、潰しちゃってるワケだし、仕方ないか。
で、またしても沈黙……雁萩太夫は、一人手酌で、朱盃に注いだ酒を呑みながら、深沈と物思いにふけっている様子。タマに、思わせぶりなため息をつく。優雅な白檀香が漂う。
啊、あの唇が、さっき……僕の息子を……いやいやいや! もうそこから、気を逸らせ、楓白! 思い出すと、またまた体が火照って、寝た子が元気を取り戻しちゃうから! とにかく! とにかくだ! それは一旦、忘れるとして、やっぱり、美しいな……雁萩太夫。
凛樺には、本当に本当に悪いと思うけど、とくに横顔なんて完璧だ。絵師の佳山君がここにいたら、絶対、彼女を画題にしたいと云い出すだろうな……だが雁萩太夫は、そんな僕の熱い視線に気づいたのか、横目で僕を一瞥し、ポツリポツリと、昔話を語り始めた。
「私ねぇ、哥さんとは幼馴染みなのよ。信じられないでしょうけど、昔は【劫初内】に住んでたの。私たちの父親が、それぞれ朝廷に勤める高位役人だったから……あの日までは」
「ご、劫初内!? 高位役人!? あなたと……師父の御父上が!?」
嘘でしょお!? だって雁萩太夫はとにかく、神々廻道士が以前、国家の中枢機関である【劫初内】に暮らしてたなんて……いくら想像力の豊かな僕でも、想像できないよぉ!
だけど、雁萩太夫の表情も口調も、至って真面目だし……いや、でも、まさか……。
すると、困惑する僕に気づいたらしく、雁萩太夫は苦笑いし、話を打ち切ろうとした。
「作り話が嫌いなら、ここでやめるわよ」
「い、いいえ! 信じます! 続けてください!」
そうだ。たとえ、どんな内容であれ、神々廻道士の秘密に近づけるなら、聞いておいて損はないはずだ。とにかく、真偽のほどは、話をすべて聞いてから考えることにしよう。
そこで、僕は雁萩太夫を促し、是非にと頼んで話の先を続けさせた。雁萩太夫は、朱盃の酒を一口呑み、大きく吐息する。啊、あの唇が、さっき……僕の息子を……だからぁ!
好い加減、そこから気を逸らせっての、莫迦楓白! 今は、大事な話の途中だろ!
けれど雁萩太夫が、僕の脳内戦争になど気づくはずもなく、酒で濡れた唇を、ペロリとなめ(うわぁ、妖艶だなぁ)、やがて深沈たる面持ちで、再び驚きの内容を語り始めた。
「劫初内暮らしの頃は、よく一緒に遊んだものよ。私と哥さんたちと……実はもう一人いたの。仲のいい幼馴染みがね。とにかく、劉哥さんと彪哥さんが、毎日遊んでくれたから、私はとても楽しかったし、幸せだったわ。だけど、あの日……宮内大臣附き少傳だった私の父が、六官吟味方だった劉哥さんの父上によって、大規模な汚職事件を告発され失脚し、左右衛大臣だった彪哥さんの父上によって、処刑され……なにもかもが変わってしまった」
宮内大臣附き少傳!? 六官吟味方!? 左右衛大臣!?
す、凄い! 出て来るメンツの役職も凄いけど……神々廻道士の父親が六官吟味方だったってのも凄いけど……いや、なにより雁萩太夫たちの身に、そんな悲劇的事件が降りかかってたなんて……ん? 待てよ? そう云えば先輩の文官から、聞いたことがあるぞ!
十数年前に、宮内大臣の側近が起こした汚職事件の経緯……でも、それは確か……。
「だけど、その事件、実は宮内大臣の謀略だったって噂が……いえ、噂とはいえ、かなり信憑性の高い話だって、先輩が云ってましたよ? ただ、相変わらず宮内大臣は朝廷を仕切ってますし……下手に騒ぐのは危険だから、みんな口を閉ざしてるんだと思いますけど」
なにげなく、そう云った僕の顔を、雁萩太夫は注視し、ハッと息を呑んだ。
「あなた……劫初内の役人なの!?」
「はい……と云っても、一番下っ端の文官でしたし、今はもう、ちがいますけどね」
「嫌だ……こんなこと、話すんじゃなかったわ……」
雁萩太夫は立ち上がり、僕の方を睨んだまま、落ち着かぬ様子で、室内を歩き始めた。
えぇえ!? だって……こんな中途半端でやめられたら、それこそ困るよ!
「で、でも! ここまで話しちゃったんですから、最後まで往きましょうよ! 興味本位ってワケじゃないですけど、ここでやめられたら、気になって、不眠症になりそうです!」
僕は必死になって、汗だくになって、泪目になって、雁萩太夫を説き伏せようとした。
そんな僕の情けない態度が、かえって奏功したようで、雁萩太夫は、しばし思案にふけったのち、『仕方ないわね』と云った表情で、元の籐椅子へ戻り、腰を下ろしてくれた。
「……いいわ。あなたが、私たちを調べに来た密偵じゃないってことは、信じてあげる」
「はい?」
僕は一瞬、彼女のセリフの意味が判らず、キョトンと首をかしげてしまった。
それも結果的にはよかったようで、雁萩太夫はようやく穏やかな微笑をたたえ、昔話を再開した。
「続けるわよ」
「お願いします」
「あなたも役人だったなら、知ってると思うけど、事件を起こして【劫初内】を追放された罪人の家族が、どんな末路をたどるのか……母上さまは、幼い私を食べさせていくため、体が弱いのに無理して働いたせいで、流行病にかかり、呆気なく死んでしまったわ。そして残された私も、罪人の娘として、この遊郭へ売り飛ばされ……一生飼い殺しにされる運命なのよ。私には、破格の五千万螺宜なんて、身請け金がかけられてるし、それじゃあ劫初内の大臣級だって、なかなか手が出せないわよね。父上さまが汚職のすえに受け取った金も、それくらいだったんだって……だけど、私には到底、信じられない! あの優しくて、誰にでも愛されて、公明正大で、謹厳実直だった父が、そんなこと……絶対に……」
な、なんて、酷いこと……啊、案の定、雁萩太夫の表情は、どんどん曇っていく。僕は無理に話を聞き出したことを、だんだん後悔し始めていたが、最早どうにもならなかった。
雁萩太夫は、うつむきがちに言葉をつむぐ。
「なのに、劉哥さんと来たら……そもそも、あの人の御父上が、私の父を告発しなければ、こんなことにはならなかったのに、まるで何事もなかったかのように、平気な顔して、ちょくちょくここを訪れて……かといって、私を部屋に揚げるでもなく、いつも白菊太夫ばかり! あんな拝金主義の女狐、どこがいいんだか……その上、私にはいつも、別の男をあてがって! この前だって、そうよ! おかしな顔の大尽客を連れて来て、『こいつがお前を落籍したいんだとさ、喜べ』なぁんて! うれしいワケ、ないじゃない、莫迦!」
円卓を叩き、激情を吐露した雁萩太夫……ここに来て僕は、彼女の気持ちに勘づいた。
恐る恐る問うてみる。
「もしかして、雁萩太夫さん……師父のことを?」
雁萩太夫は、紫紺色の大きな瞳をうるませ、か細い声音で、話をこう締めくくった。
「私はねぇ……哥さんが直接、身請け金を持参して、ひざまずき、真摯な態度で、私に求婚してくれるまで、誰にも落籍される気はないのよ。でも……あの人に、そんな気は微塵もないのよね。他の男に落籍されそうになっても、喜ぶような人だもの。だから私は死ぬまで、苦界で生きる篭の鳥……尤も、年老いて使い物にならなくなれば、ゴミ同然、否応なく殺処分されちゃうんでしょうけど……父が犯した罪は、それほど重いのよ、シロさん」
そんなのって、そんなのって……あんまりじゃないか! 雁萩太夫が、可哀そすぎる!
クソッ! 神々廻道士は、なにをやってるんだ! こんなにも健気な女性の気持ちを踏みにじり、あんなけばけばしい遊女と、平気で同衾するなんて、とても考えられないよ!
ん? いや……でも待てよ? いくら高尚な遊郭とはいえ、太夫一人揚げるのに、そんな大金かかるワケない……なのに、神々廻道士の強欲さは……ハッ! そうだったのか!
きっと、そうにちがいない! あいつにも、ちょっとはいいトコあったんだ! うん!
僕は早速、たった今、思いついたことを、雁萩太夫にぶつけてみた。
「あ、あの……これは、僕の勝手な推測なんですけど、もしかして、神々廻道士が、色々な手段を用いて、せっせと金を貯めこんでるのは、実は、あなたを身請けするためでは?」
「まさか! あの人、私に対して、そこまでの感情を持っちゃいないわよ」
あっさり、きっぱり、はっきり、否定されてしまった……いやいや、だけど!
「で、でも……師父の強引な金集めを見てると、そう思えてならないんですが……」
「だって、あなたを私に、あてがうくらいだもの……判るでしょう?」
うっ! た、確かに……そう云われちゃうと、反論しづらいな……だが、しかし!
「そうか……いや、でも、あなたほどの美人なら、もしかしたら……」
「好い加減にしてよ。私、同情されるのが一番、嫌いなの」
執拗に食い下がる僕に、雁萩太夫はかなり気分を害したらしく、プイとそっぽを向いてしまった。僕は慌てて、彼女の傷心をいたわり、精一杯の思いを、伝えようとした……が、
「同情? それは……ちがいます! 僕は本心から、そう思っただけで……」
「……あなたが、いい人だってことは、よく判る。でもね、善人と悪人なんて、本当は紙一重なのよ。相手に……とくに弱い立場の人間に、自分の正義を押しつけないのが肝要ね」
……僕は、がっくりとうなだれた。確かに彼女の云うことは尤もだ。ついつい熱くなって、自分なりの正義をつらぬこうと躍起になってしまったな……僕は決して、彼女を論破しようと思ってたワケじゃないのに……傷つける気はなかったのに……ごめんよ、雁萩太夫。
だけど……そんな、反省しきりの僕に、雁萩太夫は優しく手を差し伸べてくれた。
「ひとつだけ、はっきり云えることがあるわ……あなたって、本当に純粋な人なのね。なんだか、あなたの奥さまが、うらやましくなっちゃったわ。さぞ、幸せなんでしょうね」
僕は無性に、泣きたくなった。僕に、大金を稼げるだけの甲斐性があれば、たとえ雁萩太夫を妻にはできなくとも、ここから身請けしてあげたい……力になりたいと思ったんだ。
ただ、今の僕では、彼女になにも云えないよな……同情か。そう、同情……僕が今、雁萩太夫に対し持っているのは、彼女が嫌うそれ以外の感情では、ないのだから……多分。
しかし、そんな折も折――、
「喂、シロ。終わったか?」
「うげげっ! 師父!?」
帳幕を開け、珠簾の合間から、ヒョイと顔を出したのは、神々廻道士だった。
ま、まずい! まだ、心の準備が……首輪を見られたら、全部バレちゃう! けれども、僕の事情など、なにも知らぬ雁萩太夫は、気を利かせたつもりで(って云うか、さっき僕自身がお願いしたんだけどね)、大袈裟とも思える嘘八百を並べ、口裏を合わせてくれた。
「哥さん、今日のところは、お礼云っとくわね。いい人、連れて来てくれたじゃない。久しぶりに、愉しませてもらったから……シロさん、それはもう凄いの……アレも大きいし、前戯での焦らし方も巧いし、その上、女泣かせの妙伎まで使ってくれて……お陰で四度も桃源郷を見られたわ。啊、まだ体の芯が燃えてる……絶対に、また来て頂戴ね、シロさん」
雁萩太夫は、甘い吐息をつき、自分の体を切なげに、まさぐるような仕草をした。
だ、だから! 云いすぎですってば、それ! 嘘とはいえ、は、恥ずかしい――っ!
「……本当に、寝たのか?」
「「え?」」
神々廻道士の、険悪な表情に、僕と雁萩太夫は一瞬、息を呑み、声をそろえた。グイッと首輪の宝玉をつかみ、引き寄せる神々廻道士……ヤバ――い! 落ち着け、楓白! 平静を保て! 静謐な水面だ! 僕は雁萩太夫と寝たことに……いや、寝た、寝た、四回!
「……ふん、まぁいい。よかったな、シロ」
神々廻道士は、僕を乱暴に突き飛ばし、背後に佇む雁萩太夫の顔を一瞥した。
バレてない? ねぇ、バレてない? それとも、裏になにか謀略がひそんでたりする? どっち?
「じゃあ、帰るぞ。雁萩太夫、またな」
「さよなら、哥さん」
そうこうする内にも、神々廻太夫は、実に素っ気ない態度で、幼馴染みである雁萩太夫に別れを告げ、遊郭の玄関口へ向かおうとする。雁萩太夫は心なしか、淋しそうに見える。
僕は、そんな雁萩太夫の気持ちを慮って、精一杯の謝意で、彼女に深々と頭を下げた。
「今日は本当に、ありがとうございました……お陰で、助かりました」
「それは、こっちのセリフよ、シロさん。またね」
雁萩太夫は、クスリと笑い、僕に軽く手を振ってくれた。しかも、『またね』って!
う、うれしい……かも。神々廻道士には『さよなら』で、僕には『またね』……ふふふ。
ハッ、いかん! 浮かれてる場合じゃない!
凛樺に申しわけないし、なにより廊下の向こうで、神々廻道士がこっちを睨んでる!
早く往かなくちゃ! 僕は慌てて神々廻道士に続き、長い廊下を駆け出した。
途中、派手にすっ転んで、他の遊女たちの失笑を買う。そして、これも後日談なんだけど、見世を出る僕らの後ろ姿を、ひっそりと見送りながら、雁萩太夫はつぶやいたそうだ。
「……もう、昔の名では、呼んでくれないのね、劉哥さん」
部屋の丸窓から、外を見やる雁萩太夫の瞳には、いつしか泪が浮かんでいた。
だが、彼女を押しやるようにして、現れた白菊太夫が、僕らの背中にこんなことを叫んでいたな。
「劉晏さまぁ! 次はもっと、もっと、もぉっと、可愛がってくださいなぁ!」
当然、雁萩太夫は不愉快そうに、美しい眉宇をひそめる。
「あんた……他人の部屋まで上がりこんで、よくもそんな恥知らずなセリフ、吐けるわね」
「あら、だって本当に劉晏さまの××は、〇〇でぇ……あぁん、次に会う日が待ちきれないわぁ。他の客じゃあ、こんな風にはならないのにぃ、罪作りな男。あんたも頼みこんで、抱いてもらえばいいのにぃ。いつも物欲しそうに、指くわえて見てるだけじゃなくてさぁ」
「私がいつ、物欲しそうに指くわえて見てたって?」
「いっつもよ。惚れてんでしょ? 劉晏さまに……だから、折角の身請け話も、断り続けてんじゃないの? 莫迦みたい。あの人、あんたのことなんて、ハナから眼中にないわよ」
「……判ってるわよ」
「よかったぁ! ならいいの。さっきの言葉、撤回するわねぇ。私の男に、絶対、手を出さないでよぉ? まったく……【檀族】のクセに、いまだ客がつかないなんて、あんたも相当、要領が悪いのねぇ。あんたみたいな女が、太夫やってるなんて、信じられないわぁ」
白菊太夫は、雁萩太夫に散々憎まれ口を利いたところで、ようやく気がすんだのか、彼女の部屋を出て往った。部屋に残った雁萩太夫は、悔しげに朱唇を噛み、ついに決心した。
「いつも、私の客を横取りするのは、誰よ! ……いいわ、もう哥さんなんか待たない! 次に身請け話が来たら、どんな相手だろうと……たとえ、相手があいつだろうと、決して断らないわ! そして、すべての決着を私一人でつける……それでいいんでしょ、哥さん」
ー続ー
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