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生き抜け! ー南極観測船『宗谷』秘史ー

昭和十八年一月二十八日 早朝
ニューギニア ブカ島 クイーンカロライン
日本海軍 特務艦『宗谷』艦上

「右舷後方、雷跡四っっ!」
『宗谷』は、見張員の絶叫で測量作業から瞬時に戦闘態勢に入った。

 全員、絶望的な眼差しで右舷に視線を走らせる。
『宗谷』は全速でも12ノット。米軍の潜水艦でも追いつく程度の速力しか出ない。速力の遅い船は当然舵の利きも悪く、魚雷が近付いてからではとても回避できるものではない。
 それを、乗組員全員が知っている。

『宗谷』は砕氷機能を持った民間船として造られたが海軍が接収し、特務艦として南方の激戦地に送られていた。元が民間船なので軍艦としての防御力は弱く、防水区画なども無いので、魚雷を一発でも受ければ、破口から海水があっという間に艦内全てを浸し、沈没してしまう。
 また測量が任務であるため、乗員の戦闘に対する練度も高くはない。ミッドウェー海戦、ガダルカナルの戦いにも参加してはいるが、どちらも作戦が中断され、実際の戦闘にはならず引き返している。

特務艦時代の『宗谷』

 しかし今、魚雷がまっしぐらに突き進んでくる。
 数秒後には『宗谷』初めての本格的戦闘になるのは明白だ。そして”最期”である可能性もあった。

「前進強速ぅっ! 取り舵一杯! いそげぇっ!」
 無論、操舵士は必死に舵を回しているが、『宗谷』はのんびりと、ゆっくり回頭している。
「魚雷一本、右舷、通過っ!」
 魚雷のうち一本は、右舷スレスレに避けることができた。
「よしっ、二本、三本目も通過ぁ…… 最後の一本っ、頼むよけてくれぇ!」
 そして、四本の魚雷のうち、三本までを回避する。乗員達はもう、祈るばかり。
 しかし、魚雷を発射した米軍潜水艦の方が一枚上手であった。最後の魚雷はわずかにタイミングを外して発射したようで、右舷後方に真っ直ぐ突き進んでくる。
「戦闘態勢っ、爆雷の一発でもやり返さなきゃ死んでも死にきれんっ」
「くるくるっ! 魚雷来ますっ!」
 その声が終わらぬうちに右舷に魚雷が突き刺さり、その衝撃とともに、大爆発が…… 発生しなかった。

 一瞬の沈黙の後、我に返った『宗谷』は反撃に移った。
「魚雷、不発ですっ! 右舷に潜望鏡っ」
「全速前進っ! 爆雷戦用意っ!」
「敵潜水艦、急速潜航ぉお!」
「針路そのまま、ヨーソロー…… 爆雷投下ヨーイ、テェッ!」
 爆雷は宗谷の速力を考慮して、パラシュート付きでゆっくりと沈むように工夫されている。宗谷が逃げる前に炸裂してもらっては困るのだ。
 二度、三度の水中爆発。そして、海面には潜水艦のものと思われる重油が浮いてきた。
「撃沈? 撃沈っ! 敵潜水艦撃沈っ!」
『宗谷』初めての戦果である。

特務艦『宗谷』に命中した米軍の不発魚雷

『宗谷』の幸運はその後も続き、昭和十九年二月のトラック島空襲では座礁して一度は総員退艦したが、満潮になって自然と離礁。自力航行可能となる。
 さらに昭和二十年六月、僚艦二隻とともに満州へ輸送任務につくが、二隻は敵潜水艦に撃沈され、辿りついたのは『宗谷』ただ一隻。

『宗谷』の幸運は戦後も続く。ご存知、砕氷船に生まれ変わり南極に向けて出航。
 しかし、日本に割り当てられた地域は、当時南極の空白地帯で、着岸不可能と言われていたプリンス・ハラルド海岸。
 着岸不可能?前人未到? それがなんだ。潜水艦の魚雷、グラマンの空襲をかいくぐって来た『宗谷』である。そんなことにめげず無事着岸し、実に南極観測を第一次~第六次まで実施したのだった。
 ちなみに、『宗谷』が輸送した南極の昭和基地が日本初のプレハブ(プレファブリケーション)住宅である。さらに、発泡スチロールが初めて利用されたのも昭和基地である。

 また、『宗谷』の幸運の恩恵にあずかったのか、タロ、ジロの二匹の犬は奇跡的に命をつなぎ、後に「南極物語」として映画化され、多くの人に感動を与えることとなった。

『宗谷』は今だ現役である。航海こそしていないが、海上保安庁の訓練所として利用されているとともに、一般公開され、人々にその歴史を無言のうちに語り継いでいる。

そして2024年2月から、『宗谷』を展示している船の科学館の本館が解体となるが、その魂である『宗谷』の展示は継続するとのことだ。

現在の『宗谷』 秋田しげと 撮影

 どのような任務でも、どのような姿でも、『生き抜く』。宗谷を見るたび、人もそうありたいと力づけられるのだ。


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