さまよえる『桜花』
4分の1ページ。
私が担当することになった記事の紙面は大きく、やりがいのある仕事だった。
『あの戦争を振り返る』という特集記事だ。戦争末期の特攻。それも、人間がロケット爆弾を操縦して敵艦に突入する『桜花』という兵器についてのドキュメンタリーである。
タイトルも決まっている。『華々しく散った桜花と搭乗員たちの青春』、これだ。
なるべく読者をひきつけるよう、記事のほうも華々しくしたいものだ。
しかし、取材先を探すのには苦労した。『桜花』で出撃した搭乗員に生き残りはいない。そこで、『桜花』を目的地まで運ぶ役割の、一式陸上攻撃機の搭乗員に話を聞くことにしたのだった。
※※※
元海軍上等飛行兵曹、安東政季氏は、私が取材に訪れたその日も、布団を跳ね上げるようにして目を覚ましたという。
『切り離せッ! 早くっ……』
『安東っ、何をしているっ!』
安東氏の重い口からやっと、その2つの言葉を聞き出すことができたのは、取材を開始してから40分後である。が、夢だと言われ、イラつく感情を抑えながら書き留めたノートにバツ印をつけた。
安東氏はそんな私の様子など全く気にかけず、重く、かすれた声で呟く。
「この夢を見たときには、決まって窓の外は暗い雲に覆われているんだ」
私は焦れて、体験談を話すよう促した。
「えーと、夢の話より実際の桜花の活躍をお聞きしたいのですが……」
安東氏は台所に行って蛇口をひねると、手のひらで受けた水を一口飲み、言った。
「活躍だと?」
ギロリと音がするのではないかと思うほど、鋭い視線で私を一瞥する。
「俺の話を聞いた後だったら、あんたを殴っている」
「な、なぜですか?」
「『活躍』などという言葉は、そぐわないどころか、全く次元の違う話だ」
「というと?」
「俺は今でも、あれで良かったのかどうか悩んでいる…… この右腕をな、切り落としたいと思うことだってあるんだ」
私は息をのむ。『桜花』の戦闘とは、違う話になるような予感がしていた。しかし、記事のために話だけはどうしても聞かねばならない。
「敵を恨むならともかく、ご自身の右腕を切り落としたいという気持ちは、どのような体験をすれば生まれるのでしょうか?」
私は内心期待薄だな、という気持ちで聞いた。すると、安東氏もまた、私に何の期待もしていないという視線を送りつつ、話し始める。
※※※
昭和二十年四月 沖縄上空
七二一海軍航空隊 神雷部隊
「隊長機が、やられましたっ!」
安東上飛曹は続けざまに叫ぶ。
「敵機、右後方っ」
火だるまになって落ちてゆく隊長機を確認する間もなく、グラマン戦闘機の機銃を一連射浴びた機体に衝撃が走ったが、致命傷ではない。
双発の攻撃機、一式陸攻には、1200キロの爆弾を機首に搭載している一人乗りの特攻機『桜花』が抱かれている。その動力はロケット推進である。ひとたび発進すれば急激な加速力により一瞬で高速に達し、撃墜は不可能に思われた。
しかし、航続距離はわずか40キロメートル弱。よって目標の近くまで鈍足の大型機で運ばなければならない。
当然アメリカ艦隊はレーダーでそれを察知していて、近づく前に戦闘機で迎撃してくる。
『神雷部隊』と命名された18機の桜花特攻隊の第一陣は、桜花を発進する前に全滅。その教訓から、今回の出撃は発見されにくい少数編成となっている。
しかし、米軍のレーダーと『ピケットライン』と呼ばれる哨戒網をくぐり抜けることは出来なかった。
「五条中尉、第一小隊全滅っ! 敵機、こちらに来ますっ!」
一式陸攻の通信担当、安東上飛曹は、操縦席にいる第二小隊長、五条中尉に叫んだ。機は大きく右に旋回してグラマン戦闘機を一旦はかわすが、敵は余裕を見せて宙返りし、今度は左後方に位置する二番機を襲ってきた。あっという間に二番機のエンジンから火を噴き、桜花を抱いたまま落ちていく。
その姿は足元の真っ黒い雨雲に呑み込まれ、すぐに見えなくなった。
「くそっ! 護衛の戦闘機はどこにいるんだっ!」
五条中尉の叫び声に安東上飛曹は答える。
「今日の戦闘機隊の隊長は、深井大尉ですっ」
「クソ、深井かっ!」
五条中尉は、相手の階級が上であるにもかかわらず、怒りを隠さずに呼び捨てた。
護衛戦闘機の隊長には2種類のタイプがいる。
ひとつは、敵の戦闘機を撃墜するまで追っていくタイプ、もうひとつは、攻撃機に張り付いて、襲ってくる敵だけを追い払い、深追いせずにまた攻撃機のそばに戻ってくるタイプだ。
前者は撃墜数は多いが、攻撃機の損害も多い。後者は撃墜数は少ないが、攻撃機の生還率は高い。深井大尉は、前者だった。
安東上飛曹が右後方を見ると、三番機が2機のグラマンに掃射されて主翼が吹き飛び、錐揉み状態で黒雲に吸い込まれてゆくところだった。そこからまるで墓標のように、黒煙が伸びている。
夕闇が迫る、敵艦隊は黒雲に隠れて見えない、護衛戦闘機は戻らない、グラマンは襲い来る。
五条中尉は無念そうに言った。
「桜花を、捨てよう」
桜花を捨てて、身軽になって基地に帰るのだ。しかしそのとき、桜花搭乗員の烏丸少尉が妙なことを言った。
「見えた……敵艦発見っ! 雲間に敵艦の灯火が見えましたっ!」
その声に、安東上飛曹は一式陸攻の風防にへばりついて外を見るが、鉛を流したような密度の濃い雲が延々と続いているだけである。それをよそに、烏丸少尉が桜花に乗り込んだ。
烏丸少尉は安東上飛曹より4つ年下の20歳。学徒出陣で桜花隊に志願したのだ。
少尉は昨夜遅く、軍刀を持って宿舎を抜け出し、裏の竹やぶで刀を振り回した末、崩れこんで泣いていた。安東上飛曹が近づくと嗚咽を忍ばせたが、震える肩に手を置いた途端、また泣き始めた。
上官であっても、数ヶ月前まで普通の学生だったのだ。安東上飛曹は哀れに思い、なるべく優しい声色で言った。
「烏丸少尉…… 私にできることがあれば」
「安東上飛…… 安東さん。もう、こんな気持ちはゴメンです。耐えられない。死ぬ前の日の夜がこんなに辛いなんて、思いませんでした。明日は、必ず桜花を発進させてください……」
嗚咽まじりで話す言葉は、将校どころか、すでに軍人のものではない。
安東上飛曹は答える。
「もちろん、敵艦が見えれば」
「いえっ! 見えなくてもですっ、帰ったら、また『死ぬ前の日』はやってくる。どうか、どうか察してくださいっ」
安東上飛曹は答えられない。ただ、無言で烏丸少尉の頭をかきいだいた。
「烏丸少尉っ、桜花から降りてくださいっ! 敵は見えません!」
烏丸少尉は、昨夜とは別人のように、将校らしい話し方で言い返す。
「いや、見えた、あれは確かに大型艦の灯火だ。絶好の機会だっ。五条中尉、桜花を発進させてくださいっ!」
そのとき、グラマンの機銃弾が機体を貫通。それを待っていたかのように、烏丸少尉は発進を促した。
「五条中尉っ! 早くっ!」
「敵が、見えたんだなっ?」
「はいっ!」
安東上飛曹は割って入り、語気強く否定した。
「うっ嘘だっ! 私は見ていないっ! 五条中尉、敵はいません。烏丸少尉、桜花から降りてくださいっ、帰るんだ、一緒に帰るんだっ」
そのすぐ横では偵察員の佐竹二飛曹が機銃を撃っている。しかし、零戦以上のスピードを誇るグラマンには命中しない。
味方は全滅寸前だが、敵はほぼ無傷である。その切羽詰った状況が、五条中尉に烏丸少尉の言葉を信じさせた。
「よし、桜花を発進させるっ」
安東上飛曹は驚きの声をあげる。
「ごっ、五条中尉っ!?」
烏丸少尉が桜花の風防を閉めると同時に、まるで暗誦でもするような、逡巡を含んだ五条中尉の声が聞こえる。
「桜花、発進……くっ、発進しないぞ、操縦席側投下スイッチ故障!」
それを聞いた烏丸少尉は、桜花の操縦席で絶望的な表情を浮かべ、次に、すがるような視線を安東上飛曹に投げかけた。
『桜花』の投下スイッチは、操縦席ともう一箇所、緊急用の手動切離しレバーが通信席…… そう、安東上飛曹の目の前にある。
五条中尉が叫ぶ。
「安東っ、桜花を切り離せっ!」
「待ってください! 烏丸少尉、降りるんだっ!」
安東上飛曹は桜花の風防を叩いた。しかし烏丸少尉は微動だにしない。桜花の操縦席で、ただ悲しげな表情を安東上飛曹に向けている。
グラマンの射撃で佐竹二飛曹が倒れた。安東上飛曹が駆け寄ると、弾丸は胸に五センチもの穴を開けて貫通しており、すでにこと切れていた。
「佐竹二飛曹、戦死っ!」
その声に、五条中尉の絶叫が返ってくる。
「安東っ、早くっ、早く桜花をっ! 早くっ!」
一式陸攻はいまや一機のみ。グラマンの群れが弱った小鹿に噛み付くハイエナのように、四方八方から襲いくる。
一式陸攻の操縦席の窓に鮮血が飛び散った。
「副操縦士、戦死ィっっ! 安東おっ、何をしているっ!」
「あっ、あっ、あ……」
安東上飛曹は逡巡を繰り返し、動揺し、呆然としていた。機銃弾は降り注ぐ、仲間は次々と斃れる、桜花を切り離せと命令が飛ぶ。が、敵艦はいない。
烏丸少尉の、まるで子供に言い聞かせるかのような優しい声が、風防の中からくぐもって聞こえた。
「安東上飛曹、もう、昨夜のような気持ちは、嫌なんです。お願いします、安東さん。ほら、敵艦が見えるじゃないか……」
夕闇に月が昇る。下界は沼のような雲にさえぎられ、真っ暗だろうと思われた。しかし、視界の片隅に一瞬、明るく光るものが見えた。
「桜花、発進、用意っ……」
呻くように安東上飛曹は言った。
烏丸少尉は、さも安心したかのように、にっこりと微笑むと、操縦桿を握り締める。
「…… ヨーイ、テーッ!」
安東上飛曹は叫ぶと、汗まみれの腕で思い切りレバーを引いた。すると、『桜花』はすぐに、黒々とした雲の中に消えていった。
※※※
「烏丸少尉は『桜花』に乗って、今でも暗い雲の中をさまよっているように、思えるんだ……」
(暗い雲は、あなたの心にあるんだ)
その言葉を、私は喉元で呑み込んだ。
ひとつ、安東氏が私に打ち明けていないことがあると思った。
桜花を切り離せば、母機である一式陸攻の速度、運動性が増し、生還の可能性は上がる。たとえそれが百分の一、千分の一の低い確率であろうとも。そして、その少ないチャンスを安東氏は引き当てた。
それが彼の心の『暗い雲』だ。
おそらくは生涯、烏丸少尉の『桜花』は、その雲の中をさまよい続けるのだろう。
『桜花の活躍』と言った自分が恥ずかしくなった。『右腕を切り落としたいという気持ちは、どのような体験をすれば生まれるのか』などと質問した自分に嫌気がさした。
安東氏の右腕に刻まれた、皺に隠れそうな切創を見れば、そのような質問を安易にすべきでないことはわかったはずだ。
私は、安東氏の経験を伝えることで、その贖罪にしようと思った。
言葉を失った私を、安東氏は玄関まで送ってくれた。その態度は取材を始めたときと違い、物柔らかに変化している。
私は頭を下げて、いくばくかの謝礼を渡したが、安東氏は固辞して受け取らない。私は再び一礼すると、外に出た。
すでに空は晴れ、陽は街並みに姿を隠し始めている。振り返ると、安東氏が振る右腕の延長線上に半透明の細い弓張り月が昇り、その近くに宵の明星だけが明るく輝いていた。
「敵艦、か」
私は吐き捨てるように呟き、一式陸攻で烏丸少尉と安東上飛曹も見たであろう、美の女神に例えられるその星を、ジッと、睨んだ。
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