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大乗非仏論と弁証法 その3
意識・精神は、弁証法の流れにそって、発展していくとすれば、その目標となるのが「絶対知」です。
では「絶対知」とは、なにを意味し、どういう状態をさすのか。絶対知の状態では、弁証法の動きが、いっさい止まっています。それは、結論ではなく、過程にあるのです。そこにいたる過程が大事なわけです。
精神が、たどってきた過程をふりかえることで、達成感・満足感を得られるという。最終結論ではなく、過程に注目すると、ヘーゲル哲学は理解できやすいというのです。
では、仏教の禅的なものを哲学に高めた西田幾多郎の思索を見てみよう。
西田哲学は日本の哲学を代表する初の独創的哲学であり、大正から昭和初期にかけて大きな反響を呼んだ。
1911年、西田幾多郎は自らの参禅体験をもとに、処女作『善の研究』を発表した。
西田はすべての対立、矛盾を統一的(知情意)に説明する主・客分離以前の直接的経験を「純粋経験」と呼んだ。西田はそのような主客合一の「純粋経験」が経験の最醇なるものだと考えた。西田は、純粋経験を実在と考え、そこから壮大な存在論を展開したのである。西田は「純粋経験」の基礎となる根本原理を絶対無だと考えた。そして、絶対無があらゆる存在(個物)を包括する「無の場所」を実在の根底としての「弁証法的一般者」・・(主格の統一即ち直感的)だと捉えたのである。
西田は、主語的に対する述語的論理を、ヘーゲルの有の弁証法に対する絶対無の弁証法などを通して、いわゆる「絶対矛盾的自己同一」の弁証法を構築した。西田哲学は「無」を根底とする東洋的かつ禅的な生命哲学なのである。それは従来の西洋哲学をも総合的に包括できると理解したのだろう。
禅は自ら体験・自得するもので、他人に説明することはできないという立場に立つのだ。禅においては、日常言語では説明できない不立文字の世界を体験することで自得することをを目指す。
ですから、説明できない禅を、説明をこととする哲学の場で取り上げることは、ふさわしくない。よって西田哲学の分かりにくさはこの点にある。
表現を変えれば禅は悪く言えば古臭い東洋的伝統にたつものであり、近代的西洋哲学の場で取り上げると誤解される。
西田は哲学的思索において誤解を恐れ禅への言及を避けた。
しかしそれは表面的理由である。
裏面からに見れば、「善の研究」には西田の禅体験が生かされていると考えるのが妥当である。
では、西田はどのような形で自らの禅体験を哲学の中に生かしているのだろうか。
西田哲学のキーワードである「無」や「絶対無」は
下層無意識脳や「無」の見性体験と深い関係があると考えることができる。
西田幾多郎の「純粋経験」の概念は、弧立した概念ではなく、同時代の哲学者たちと問題意識を共有したものであった。
それは、ウィリアム・ジェームズの純粋経験の概念やアンリ・ベルクソンの直観の概念と共通している。
ジェームズやベルクソンにおいては、純粋経験や直観は、、無限定で、内容的にも貧しいものと考えられていた。
この貧しい内容とされる純粋経験や直観をもとに、西田哲学では豊かなものへと高まっている。
西田の言う「純粋経験」は貧弱なものではなく、すべての存在の母となる、非常に内容に富んだものであるという。
それはジェームズやベルクソンのように、人間の認識作用に対して、外部から働きかけてくる対象的な存在なのではなく、
それ自身が自発的に展開して、世界を生成・発展させる豊かなものである。
それは認識の素材なのではなく、それ自身が世界を生み出していく主体的な存在である。
直観や経験に関する西田の考え方は、西洋の伝統的な思考法ではなく、西田の禅体験が反映されていると考えることができる。
西田は「純粋経験」を「現に色を見、音を聞く刹那、主・客が現前する前」というように言っている。
禅では主・客が現前する前の主客合一の状態を「心境一如(不二)」と呼ぶのだ
この主・客が現前する前の「心境一如」の状態においては、対峙している世界が一気に全体的に現れる。
「心境一如」は禅的な悟りと深い関係がある。
その統一体である(心境一如の状態)が主・客に分離・分化することで、我々の認識が深まるのである。
その結果、この世界が一気に全体としてあらわれるという発想(万物一体の思想)は、西洋哲学の伝統にはない。(Web記事から一部参照)
「弁証法的一般者」の概念とは、絶対的に矛盾するもの同士が統一されたもので、内在的であり超越的とする。換言すれば一即他他即一として弁証法的に自己自身を限定する一般者である。ヘーゲルの弁証法は、一と他をなおも対照的に連続的かつ過程的に捉えているから真の個物でないというのだ。
しかしながら、最終的に人間の認識が上がっていき、認識でつかむところの神の認識(主観)と実際の神という存在のあり方(客観)が一致する。
つまり、主観と客観が一致し、それが、人間の認識の最高段階であるところの絶対知であるとすれば、そこにおいて、初めて神の叡智に基づいた真なる「学問」が可能になるということなのだろう。
大乗非仏論と弁証法その2https://note.com/rokurou0313/n/nbdb82b61107f