汎神論とスピノサ
私は文系的人間、子供時代から歴史に大変興味がありながら機械工学の進路を歩んだ。数学的な思考も好みながらそんな勉強もあまりしないため会社勤め事体は卒なくこなしたものの技術者としては余りものにならず今も続く生活に転身した。
いろいろな思想を勉強し趣味に徹してきたがやはり一番しっくり来たのは登山を始め自然の中の散策や思想面では汎神論であった。
この思想は端的には「神即自然」とも言われ、あらゆるものに神が宿るという思想だ。
特定の宗教を信じているのでもなく、強いて言えば京都、鎌倉の禅宗寺院に惹かれそこで座禅を組んだり自然と向き合う自己を見つめてきた経緯もあった。生家にはありきたりともいえる神棚があり、近くの氏神の境内で遊び、幾世代を生きぬく巨木が醸す神秘性には憧れがあった。
そんな環境、「やおよろずの神」という考え方を持つ日本人的私には、汎神論は馴染みやすかったのかもしれない。
神と存在全体 (宇宙,世界,自然) とを同一視する思想体系で、両者を一元論的に理解し,両者の質的対立を認めない点で有神論とは異なる。
歴史な諸宗教において,その神秘的側面を理論化する際に表われる体系化の一つの型であるといわれる。
自然や世界に働く統一的原理としての神を構想するギリシア思想や仏教のようなタイプと,神の遍在および自我と神との一致を主張するべーダやバラモン教のようなタイプがある。
汎神論的内容は、人間の内面性,神秘的生活と宇宙の調和を強調するところからスピノザ,ゲーテらに影響を与えた。
汎神論(はんしんろん)とは、全てのものに神が宿っているとする考え方で
近代の汎神論で有名なのがオランダの哲学者スピノザ(1632〜1677)です。
スピノザは、「神」と「自然」は他の何物によっても影響を受けることがない、常に最高の原理であり存在であると説く。
それは、人間によって何ら左右されることもなく、常にその周りに存在する必然であるということなのだ。したがって、「神」と「自然」は同一であると主張し、両者は同じものを別の側面から見たものだというのだ。そのあたりが私には馴染む思想なのだろう。
汎神論と言えばスピノサです。
スピノザ流に言えば、全ての物体は、神に由来してしか存在しえない。
神は、そこからあらゆる物体が生じてくるところの基礎であり、神が思惟する仕方と同じように、自然世界は存在すると考えた。こうした世界観を世の人は汎神論と名付けた。
神は必然的に存在する根本原因である。このことが、神が一切の起源であり、神の外側には、神に影響し決定するようなものは何もありえないというのだ。
事物の必然性の背後には神がいる。神の本性が自然のあり方を決定しているので、事物は今あるように存在するほかない。全ては必然的なものとして、神に決定されている。これがスピノザの「神即自然」という概念のもつ意味といわれる。
キリスト教のように現実を超越した場所に人格神がいて、その神が自由意志によってこの地上(現実)を作ったということではなく、神は現実の事物に内在しており、あくまで事物は神が姿を変えてあらわれた別様態だという一元論的考え方は素直にうなづけます。
私は私であると同時に、姿を変えた神仏でもあるのです。これは禅でいうところと共通性があります。
宇宙や、生命は不思議の底にある存在そのもの。それらすべてが神の表われである。宇宙の果ての不思議を見つめる自分にはそのようにしかその不思議さは表現できません。
哲学においては個物も被造物も実体そのものですが、スピノザにおいて実体そのものは、
それ自身において存在し、その存在のために他の何ものも必要としない完全自立の存在です。
西田流にいえば、個物(有限な存在者)は、他のものに限定されることによって成立し、相互関係の対立の中でのみ存在できるもの。
黒は限りない白を含み、白は限りない黒を内に含む(対立・限定)ことで成立します。
個物である人間は、神である絶対者(実体)のいち様態でしかないため、あくまでそれは相対的な存在で実体ではありえません。
神が真に絶対であるためには、神は万物に内在するものであらねばならず、もし人格神のように現実から超越するものを立ててしまえば、神は現実に対する相対的なものになり、完全でも実体(それ自身において存在するもの)でもなくなってしまいます。
コテンTO名著から一部参照