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田辺 元

私は歴史好きである。そんなところから鎌倉や京都によく遊んだ。かの地に残る禅的な考えや教養に関心を持ちやがて京都学派という存在も知った。
ここで少し取り上げてみた田辺元は、西田幾多郎のあと、京都学派を受け継ぎ、絶対弁証法という独特の弁証法を唱えて、国家、宗教、死を思索した哲学者です。

田辺は1885年、代々佐賀藩の儒学者の家に生まれ、家父・新之助、の長男として、東京の神田猿楽町にうまれた。

1912年、27歳で東京帝大大学院を退学し、翌年東北帝国大学理学部講師に就任、1919年には京都学派の創始者である西田の招きにより、京都帝国大学文学部助教授に就任します。

田辺、42歳1927年、京都帝国大学文学部教授に就任し、翌年に西田が定年退官すると、哲学科の主任教授となります。
しかし、この辺りから田辺は西田の哲学から離反し始め、ヘーゲルの弁証法を独自の弁証法へと発展させていきます。1930年代には田辺哲学の一つの到達点とも言える「種の論理」が萌芽しはじめます。

1951年に妻のちよが亡くなると、田辺の思索は「死」を中心とするものとなっていきますが、ここにおいて、田辺は終生交わったハイデッガーとの対決姿勢を前面に押し出していくのですが、ハイデッガーが生の哲学であるならば自分は死の哲学だと主張し始めたのです。

テーゼとそれに反するアンチテーゼとが組み合わさって、より高次のジンテーゼになるという無限の運動を意味しているヘーゲルの弁証法は、途中でその動きが停止しているという批判でした。

田辺は、その動きは無限に動き続けなければならないと考え、そのために、終着点を空っぽにして、弁証法の運動を無限に続けさせようとしました。田辺は「絶対無」という概念で、このことを説明しようとします。

ヘーゲルは弁証法の最終地点を「絶対知」と呼びました。
ヘーゲルのような絶対知は存在しない、つまり終着点が無であることを田辺は主張します。

終着点が無であるがゆえに、われわれは事前の計画なしに、つまり「無」に突き動かされてテーゼをアンチテーゼに媒介しなければならないこととし、
終着点が無であるがゆえに、われわれは事前の計画なしに、つまり「無」に突き動かされてテーゼをアンチテーゼに媒介しなければならないと考えたのです。

このような観点から田辺哲学は、絶対無に支えられた無限の行為の強調にあります。言葉が示すようにその根本は、大乗仏教の空や無に根差した弁証法の批判であった。
ここでいうところの無とか絶対無であるが、無とは「有」との対概念によって成り立っている存在(有)です。
しかし、この言葉の創始者、西田はあえて、この有無の対立を超えるというより包み込む基盤となるものを「絶対無」と名づけました。田辺の絶対無を更に説明すれば、無即愛と言われる時の無が絶対否定即絶対肯定の絶対転換を原理とする絶対無のことを指しているのだ。


田辺はヘーゲルの弁証法を改造して、絶対弁証法を創始するに至りましたがその特徴は絶対無に支えられた無限の行為の強調です。

1930年代、田辺はこの絶対弁証法を社会理論に応用し始め、その成果は「種の論理」として結実することになります。

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