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道元 epispode3 帰国

本当の師を探す旅は、中国に渡ってからも続いたのです。たくさんのお寺を回りました。ようやく天童山景徳寺でのちに師となる如浄禅師に出会うのです。

中国という異国の地でもとても優秀だった道元禅師は、そこで3年修行し28歳の時正しく仏法を受け継いだ証である印可証明を如浄禅師から受けた。

そして、「中国に留まらず、早く日本に帰って教えを広めよ」という命を受け、日本に帰国します。

1233年34歳のときに、京都の深草に興聖寺を開き、本格的な僧堂(坐禅堂)を建立し坐禅修行をつづけられるとともに、たくさんの人に坐禅をすすめた。

道元禅師の噂が広まるのは早く、道元禅師の教えを求める者がたくさん集ってきました。 しかし、僧団が大きくなるにつれて迫害をうけるようになります。

また、師である如浄禅師よりの戒め、権力に近づくことなく深山幽谷の山奥に居すべしという言葉通り、権威が蔓延るところを避け、波多野義重公の勧めで越前のこの地に永平寺を開きました。1244年・道元禅師43(44)歳の時でした。

この地で正しい仏法を伝える後継者・弟子の育成に勤め最後は京都の地で54歳の生涯を閉じたのです。

亡くなった時、弟子は15人おりました。そこから、道元禅師の教えは全国に広まり、寺院数でいえば約1万5千か寺、僧侶は約2万5千人の大規模な宗派となりました。
この教えは国内にはとどまらず、今日世界各国で求められ禅堂がたてられています。

中国で道元を指導した如浄禅師は常日頃、「もっぱら修行すべきは、坐禅である。坐禅が悟り(身心脱落)である。焼香・礼拝・念仏・修懺(しゅさん)・看経(かんきん)をもちいず、ただ打坐すればよいのだ」と指導していた。

この言葉は、のちにの道元禅師にとって骨肉となる言葉であった。時に学人を励まし、導いててきた言葉となったのだ。

禅を多少理解し座ってみようとする一般人は悟りとは、修行(坐禅)の結果として得るものと理解する。ですから修行を積んで、その到達点として悟りがあるということである。しかし如浄禅師の言葉は「坐禅は身心脱落である」という。

つまり「坐禅」という『修行』が、「身心脱落」すなわち『悟りにほかならないというのである。ちっぽけな自我(エゴ)に対する執着がなくなり、一種の「没我」あるいは「無我」の境地に到達することですがなかなか理解できないことである。
修行のほかに悟りを期待してはいけないと教えることなのだろう。

この身一つで日本に帰ってきた道元禅師。だから、何か特別な仏法などというものもないし、その実践といっても、ただ過ぎるままに時を過ごし修行に明け暮れるだけなのだ。

毎朝、太陽は東から昇り、毎晩、月は西に沈む。雲が晴れると山肌が現れ、雨が通り過ぎると辺りの山々は低い姿を現す。また、3年が過ぎると閏年に逢い、鶏は早朝に鳴くものである。そのほかに、何か特別な仏の教えがあるのではないのだ。

この頃から、禅師の主著となる『正法眼蔵』の撰述示衆もはじまった。

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