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小泉八雲の夢と創作

小泉八雲は夢をよく見た。夢の内容も良く覚えており、それを大事にした。ある日の講義で学生達にこう述べている。
 「もし諸君が優れた想像力を持っていたなら、霊感を得るために書物に頼ることは止めた方がよい。それよりも、自分自身の夢の生活に頼るのだ。それを注意深く研究し、そこから霊感を引き出すのだ。単なる日常の体験を越えたものを扱う文学において、ほとんどすべての美しいものの最大の源泉は夢なのだから」
八雲は夢が文学に果たす役割は大きく、最も大切なものだと考えていた。また日常性を越えたものを描くのが文学の目的であり、それを描写することは、最も美しいものを表現するのに等しい事と想っていた。

しかし、日常を越えた世界の認識は目に見えるものを絶対視する人には、理解が難しい。
八雲を目標とする作家志望の学生は、彼が過って言った事がある「晩秋の石段にはいつも無というものの言葉が秘められているのを感じた」という彼一流の世界を知らねばならない。
ここでいう無は少しわかり難い概
念で、一切は無としながらも、無の根
拠として「無即有」と説く逆説的な東洋の存在論である。
キリスト教文明の白黒をつける対立的な物の観方ではなく、物を表裏一体と捉え、存在する物の平等性や一体性を明らかにする考えである。

八雲は自宅裏の瘤寺を好んで散歩した。そんな晩秋の一時、死の季節に移ろいながらまだ生の温もりを残す様な柔らかな日差しの中、思索に耽る。
この様なシチュエーションは、普段は何気なく見逃している無機質な石段にも注意が向くのであろう。日本的な哀愁と、無という言葉の何か謎めいたパラドックスは、八雲の好んだものである。
これを理解してこそ学生達は八雲のいう文学者作家になるための才能を獲得出来るというのであろう。「無という言葉がいつも秘められている」
これは、この作家特有の言い回しで無が自己の現前に今にも露出して来る事の表現であろう。此処は寺である。石段の向こうは霊界、此方は俗界、二つの異なる世界。それを繋ぐ石段。 
それらを全体化しながら一つの知覚として自己の内面に引き込んでいく。この意識の内面化の過程こそ無の現前と言われるものである。

禅に於いて無は単なる非有ではなく無と有の対立を越えそれを包括する絶対の根源となる。これを「絶対の無」とか「仏性」という。日本人は無を無常観と結び付け「物のあわれ」として捉えるが本来はエゴ的自己の否定を通し肯定されるダイナミックな運動体としての生命をいう。

同時代の哲学者西田幾多郎が『思索と体験』に「心の奥より秋の日の様な清く温き光が照らして、凡ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た」と述べている。
これが全ての平等性に根差す無の働きである。禅者でもあった西田のこの言葉に無の本質が表現されている。禅に造詣の深かった八雲がこの寺の石段上で同じ想いに至ったであろうことは偶然とは言えない「時代の思想」を感じる。

時間とは過去から現在を経由して未来への直線の流れと一般には定義される。しかし元々運動変化を抽象化したものであるから数式の中でしか存在しないものである。
良くも悪くも存在しない時を刻み時間に追われ生活しているのが人間である。しかし時間は人間にとって単なる物理上の変数ではない違った捉え方が必要となる。

現在は一瞬で過去になり、今、現在だったことはちょっと前の未来である。今現在やっていることが、直ぐに過去になる。つまり現在の結果が過去である。自分に向かって未来がどんどんとやってきては、過去へどんどん消えていく。これは時間も無である事を示す。無であるからこそ現在この場所は、過去現在未来を絶し、未分に内包する無限の可能性の場所となる。

次は八雲の夢についての考察である。どんな夢にも内的なメッセージ性がある。夢は内的な願望や欲求不満の視覚化であるが、一言ではいえない面もある。

他にも覚醒している様な、眠っている様な「夢うつつ」の状態で見る夢もある。これから起こるであろう出来事に啓示を与える夢である。
潜在意識に刷り込まれた思い出したくない嫌な記憶、怒りや憎悪の否定的なものを明るい潜在意識に変えることによって、夢を変えることは可能である。予め建設的な潜在意識を持つ大切さは、時間の所で説明した様に、現在此処での運命は過去の因果で決まるのではなく未来の因果によって決まるということだからである。
夢でも現実でも願望実現のイメージを鮮明に思い浮かべると、脳はそれを現実と同じように感じ、そのイメージの情報に沿った活動を開始するということである。


八雲が講義で学生達に伝えたかった事を要約したが何処まで真意に迫れたであろうか。


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