本当の心
仏教の 唯識でいう阿頼耶識とは単にいえば心です。
さらにフロイト流に言えば深層心理であり心のひだに埋め込まれた無意識のことです。
フロイト流の心理分析と違うのは、この心には人間が生まれる以前から現在までの全ての経験が蓄積されていると考えられていることです。
全てですから遺伝子情報であるDNAも他なりません。
この蔵のような「含蔵識」に蓄えられたあらゆる経験や知識が自我を形成するのです。
これら知識や経験は一人ひとり違うわけですから二元対立的な自我となります。
もし自己の真実、本当の自己を探求するとすれば自我が形成される「以前の心」を問わねばなりません。
夏目漱石の「門」はこれがテーマとして書かれました。
禅ではこれを「父母未生以前己面目」と問題提起します。
親もいない以前の自己の本来とは何かを徹見せよというのです。自意識に纏わりついた私心を捨てた時、その徹見が悟りであり見性なのです。
阿頼耶識を違う文脈から表現したら『覆水盆に戻らず』があります。
盆からこぼれた水は自ら元の盆に戻ることはありません。 覆水盆に戻らぬといわれ変化の時間性、方向性を示します。
力学的には熱力学の第二法則として定義されています。私達は縦横高さで定義される三次元に住んでいます。
目の前の三次元空間にあるものは時間とともに変化します。
純粋に三次元であれば、変化はしないはずで、立体を表現するだけなら「縦・横・高さ」の三つの要素が必要なだけである。
三次元空間に立体を置いても、変化する余地がありません。ですから、この世界は少なくとも、時間という広がりを持った四次元空間であるとも考えられます。
私たちが今見ている一瞬一瞬の状況というのは、時間を含む四次元の、時間軸の一断面、だという訳です。
私たちは脳に蓄積された記憶から、物事の変化を感じ取る事ができます。 その記憶を辿る以外に時間という第四次元を感じる事はできません。 時間の進む方向にしか物が見えない事を意味しています。
実際の時間が進んでいようと止まっていようと戻っていようと、時間が進んだ事しか実感できないのです。
私達の目の前の三次元空間にあるものは時間とともに変化します。先に述べたように、純粋に三次元であれば、変化はしないはずで立体を表現するのにはいわゆる「縦・横・高さ」の三つの要素が必要なだけで、三次元空間に立体を置いたら、変化する余地がありません。
ですから、この世界は少なくとも、時間という広がりを持った四次元空間であるとも考えられます。私たちは脳に蓄積された記憶から、物事の変化を感じ取ります。
その記憶を辿る以外に時間という第四次元を感じる事はでききないのです。時間の進む方向にしか物が見えない事を意味しています。その記憶は意識にあります。もし時間軸に立脚する4次元世界が真実であるならば、時間を認識させる記憶、すなわち人の意識も真実であるといえます。
人間は単に機械ではなく自由意志をもつ多数の細胞の集まりであり、共生することにより成立しているものであれば、進化は突然変異では無く意志により、人間に本来ある意識により進化が起こるともいえる。
全ての個体に意志が有り、共生しているという価値観が成立するのです。
宇宙の始原よりすべての物質には、物質固有の意志が存在しておりその量子が自分の意識(意志)で結びつく事で物質としての形を決定させ、その形を維持しているわけです。
人間もそのままでは自然環境に同化し短時間で朽ち果てる運命ですが、進化として環境からエネルギーを取り入れ代謝して熱ロスを最低化します。即ち老化を防ぐため体内のエントロピーを低い状態に保つ術やその間、DNAの複製も行い子孫を残す進化も勝ち取りました。
その進化の意志(意識作用、智慧)が物質を作る量子の中に宇宙の始原からあったことからこそ生命が生まれ進化し結果として私たちの存在があるのでしょう。
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