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自作本 評伝 小泉八雲

夜光るもの―夜光虫「Note別ページに収録}
評伝 小泉八雲ー(1850-1904)本名ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)。ギリシア生れ。父親はアイルランド出身のイギリス陸軍軍医。イギリスとフランスで教育を受け、1869年に渡米し、各地で新聞記者を務めた。1890年「ハーパー」誌特派員として来日。松江中学教師に転じ、小泉セツと結婚。熊本の五高に転任後、神戸に移り執筆に専心する。1895年日本に帰化し、小泉八雲と改名する。その後、東京帝国大学、早稲田大学の講師として英文学を教え、精力的に日本紹介の筆をとった。再話文学として多くの日本紹介の本を英語で出版した。

1、憧れの国日本へ
1890年(明治23年)3月18日、カナダ太平洋岸バンクーバ港を最新鋭汽船アビシニア号は日本の横浜へ向け静かに離岸した。
デッキに佇みこの北米最後の風景を見つめる、アングロアイリッシュの父とギリシャ人の母を持つラフカディオ、ハーン40歳の心には惜別の情といったものは無くこれから向かう未知なる東洋の国、仏と神々と霊性の島日本への憧れと期待感で満たされていた。

少し前の時代には太平洋横断の船旅は多くの危険や時間を要し決して快適とはいえない旅であった。
しかしアメリカの経済的発展と貿易量の増大に伴い効率的内燃機関を搭載した汽船が開発投入され横浜までは僅か2週間ほどで到着することが出来るようになっていた。それも富豪や軍人だけでなく一般人もちょっと無理すれば可能な船旅であった。

そんな貨客船の一つカナダ太平洋汽船の所属、アビシニア号(3600トン)は生糸の輸出で賑わう横浜の鉄製桟橋に到着した。
彼には挿絵画家の同行者がいた。
当時名うての紀行文作家として知られたハーンはニューヨークの出版会社ハーパ社とカナダ太平洋鉄道汽船両社の間で日本旅行の紀行文を送る契約を結んでいた。

しかしハーンは船上で同行の挿絵画家より低い報酬の契約内容を知りこの契約を破棄してしまった。これはハーンの失業を意味したが彼はそのことについて余り心配している様子を見せなかった。
何故ならば19歳でアメリカへ向かう前2年程住んだ巨大都市ロンドンでの生活が後見人、大叔母の破産により経済的援助がなくなったことで下層労働者として働かざるを得なくなり、辛酸を舐めたことや当時経済的、政治的苦境にあった祖国アイルランドの多くの人たちが移住した新天地アメリカでの移住先シンシナティで移民者として日々、食べ物にも困窮する現実を経験し尽くしたからである。

しかし今、彼は売り出し中のジャーナリストである。自分の才覚でこの苦境を脱することに不安はなかった。アメリカで幾つかの失敗を重ねた末、実業には向かない自身の特性を見極め図書館で一人勉強しジャーナリストとして生計をたてる道を自ら切り開いてきた自負があったからである。

2、横浜到着

横浜には4月4日到着した。
この当時日本の最大の輸出品は生糸であった。その世界最大の集散地であり、輸出港を擁する横浜は開港後僅かな期間で大きな賑わいの都市へと変貌を遂げていた。
上陸後ハーンは山下町93番地にあるインターナショナルホテルに旅装を解いた。食事を摂る時間をも惜しみ人力車を雇い念願であった寺への訪問を開始した。

当時の彼は仏教哲学に多大の関心があった。仏教の知識や見識は、デイリィ、シティ、アイテム社在籍中エドウイン、アーノルドの「アジアの光」の書評を書いたことが始まりで、当時の思想界を席捲していたハーバート、スペンサーの総合哲学を読んだ後は更に仏教思想に影響されるようになっていた。

「アジアの光」は釈迦の生涯やお教えを叙事詩的表現で書いた西洋社会初の仏教の啓蒙書であり、スペンサーの「総合哲学」はダーウインの進化論を社会学に応用した論文である。この理論は科学と宗教を結合づけるものとして世の評判となりハーン自身「スペンサーの学徒」と称した程、啓蒙された。

ハーンが何故、彼らを通し仏教に引かれたかといえば、仏教の持つ「縁起説」や「輪廻転生論」といわれている。縁起説は時代と供に煩瑣な理論展開を見せるが、単に釈迦の唱えた「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」と理解すればわかりやすい。

人の「生老死」、因としての生があるから果としての老死の苦がある。この苦は自己保存本能から生ずる。執着し所有しようとする煩悩に自己が生きれば結果として苦がありそれを脱却すれば苦からの開放がある。

また現在の人の在り方は過去生の表れであり、現世の在り方が未来生につながり、餓鬼畜生界から天上界までを「輪廻」するという世界観、生命観はインド社会には古来からあり仏教にもすんなり受け継がれたようだ。

仏という概念はこのような六道輪廻を越えたところのステージであり一般的に仏教では仏に生まれ変わることを「転生」という。キリスト教の入って来る以前紀元前5世紀ぐらい前のギリシャやケルト民族にも万物に精霊を認め多神教の神々がいた。また輪廻転生の世界観もあり、この思想はギリシャを基点にして東のインド、西のケルト民族に伝播した可能性も十分考えられるのである。

スペンサーの唱えた社会進化論を通し仏教も一種の進化論と考えたハーンの理解はどのあたりにあったのだろうか。彼のいう「高度の仏教」が何を指すのか判らないが推論すれば次のようなことであろう。
釈迦の唱えた「縁起」「諸法無我」は自我そのものを縁りて起こる現象と捉える。
現象であるから依るべき実態がない。それを働く本質こそが生命の実相と捉える。

夢幻の自我に執着し対象化することにより自然本来の在り方から遠ざかりあらゆる差別相が生まれる。

自と他の対立を離れた平等性に至る事が悟りであり生命の実相慈悲の自覚である。
仏教徒の究極の目標は平等智の獲得と慈悲に根ざした生活である。

仏教思想は「無我」から「空」と発展したが存在するものの在り方や形は環境からの圧力、進化圧により決定される。存在するものに定性はなく全てが変化するから無ではない。

空(不生不滅のエネルギー体)の本来的働きがあるから縁起する。不生不滅体の生滅を縁起(変化)という。

この変化の力、環境からの進化圧を受け一途に進化の方向を目指してゆく。輪廻転生を進化論になぞえればこのような意味となろう。ハーンはキリスト教のように永遠に変わらないとする夢幻の自我に固執すればするほど人類の不幸は収まらず慈悲の精神は起こらないと考える。仏教の慈悲の精神こそ人類未来の究極の宗教であるとハーンは考えていた。

ハーンが日本へ発った4ヶ月前(1889年明治23年)にハーンの同僚であったアメリカ人で女性ジャーナリストの草分けエリザベス、ビスランドが世界一周の途上、最初の訪問国であり東洋の玄関口日本の横浜を訪問している。
彼女は美貌な上、才能があり生涯を通じハーンが憧れを抱いた人であったがその旅行記を読んだ彼の羨望は日本行きへの熱き思いを熟成させる結果となった。
彼女の日本への第一印象を見てみよう。
「真西に向かってずっと航海を続け、私達はついに東洋に到着した。本当の東洋。東洋のどこかでなくて、東洋そのもの。人間とその信仰が誕生した場所。詩歌や陶器、伝統、建物の生まれた土地。」
「ここはまさに妖精が住む緑の岡」「夢見ていたよりももっと素晴らしい場所」と絶賛する。

さらに「実在のエデンの園があったのだ。ほとんどパラダイスに似たところ」とくれば退屈で単調な船旅から開放された点を差し引いたとしても彼女の興奮が手に取るようだ。ハーンも彼女から日本訪問の書簡を貰っているのでこの心象はハーンの日本行きの渇望となりついに出版社等と日本行きの契約を結ぶことになったのです。

ハーンのキリスト教への宗教観は、在米中に仏教に関する高度の知識や最新の情報を持っていたことにより、神による人間の支配や懸絶関係には辟易していた。
彼の精神は窒息状態であった。そこで英訳本の古事記を読み、そのおおらかさに惹かれた。そして仏と人間の一体を説き全てが差別なき寛容と慈悲の精神におおわれた仏の国でもある日本で生きたいと願うまでになっていた。  西洋で生きてきた今までの自己が死に、転生して仏の国へ生まれ変わることこそハーンの輪廻転生であった。

横浜に来てまもなくハーンは最初の手紙をビスランドに書き送った。
「私は彼らの神々、習慣、衣装、鳥の囀るような歌、家、迷信、欠点、その全てを愛します。しかし彼らの芸術は、ちょうどヨーロッパの初期よりも古代ギリシャの芸術の方が優れているように、我々の芸術よりはるかに進んでいると思うのです。」「自分は生まれ変われるのなら、日本人の赤ん坊となってこの世に生まれ彼らの頭脳のように感じたり見たりしたい。」

放浪癖もあり一箇所に留まることもしなかった男が訪日後僅かな間に日本の土になり輪廻転生し日本人に生まれ変わりたいといっているのは、この素晴らしい日本での経験を真に理解するのには、日本人として生まれ変わらねば到底無理であろうと考えたからである。

食事時間も惜しんで人力車で仏教寺院を探しに飛び出して行ったハーンのせっかちな行動力こそハーンの良さでもあるが、今回日本の旅行記を寄稿し原稿料で日本での生計費をねん出するつもりがたちまち頓挫してしまった。
早速に所持金が底をつき日本での職捜しに奔走する羽目になったのは彼の人生に於いて常に付きまとった短気と無計画性という性格的負の要素であった。

ともかく、生国であり母の国ギリシャ、多感な少年期を過ごした父の国アイルランドの歴史風土がもたらす多様な文化の伝統が「三つ子の魂百までも」として彼の精神構造の基底をなしていたとすれば、熱心なカソリック教徒であった大叔母からの厳しいカソリック的教育と躾は彼には殆ど反りが合わなかった。現にフランスの神学校に入学するも直ぐ退学をしてしまった。

ハーンが横浜で訪れたお寺は定かではないが成田山別院ではないかと最近のウエブサイトでは教える。
そこで英語の話せる眞鍋晃という青年学僧と出会う訳ですがこの時代英語の堪能な日本人との出会い自体ハーンのこの後の日本に於ける成功を暗示させるのです。

人力車に乗り込んだ彼の日本語の第一声は「テラ ヘ ユケ」であった。
眞鍋青年はハーンに問う「貴方はクリスチャンですか」
ハーン「いいえ」
眞鍋「仏教徒ですか」
ハーン「そういうわけではありません」
眞鍋「仏教の信者でおいででないのに、どうして喜捨なさるのですか」
ハーン「私は釈迦の教えの美しいことと、その教えを奉じている人たちの信仰を尊敬します」
眞鍋「イギリスやアメリカにも仏教徒はおりますか」
ハーン「すくなくとも仏教哲学に関心を持っているものはたくさんいますね」
二人の会話は、この文を書いている私には違和感はない。
「現代を生きている私」という意味で違和感がないということです。
「仏教徒ですか?」と問われれば自分には「Yes」と答える自信はない。しかし仏教哲学や文化にはずーと関心を持ち続けている。                                                                                                                                                                                                      
凡そどの宗教にも信仰への信と云うものが無ければならない。信のない宗教は信仰の対象にはならないしその教徒とはいえないからである。仏教では信とは仏、法、僧の三帰依である。

「夢の途上 ラフカディオ、ハーンの生涯 アメリカ編」を書いた工藤美代子氏によればこの辺りの事情を次のように論評している。
「ハーンの興味の対象はすでに日本人の精神世界にあった。」「この当時の日本人の体格や住居の小ささから訪日した外国人のほとんどがお伽の国と感嘆したがハーンはそれ以上に仏教哲学に関心をもって、この国の人々の精神構造を知りたいと考えていた。だからこそ「テラ ヘ ユケ」と車夫に叫んだのだ。

八月下旬ハーンはニューオルリンズ当時知り合った文部省の役人服部一三らの助力で松江中学での英語教師の職を得、眞鍋青年を案内係に松江に出かけることになった。彼の学歴からいって地方といえども師範中学校の教師の職を得た事は幸運と言って良いことなのであろう。ともかく安い俸給ながら日本での経済的窮地を脱したことは彼を一応安堵させた。

3、神道の故郷山陰にて
神戸までは鉄道の旅。そこから人力車で4日かけ山越えの道を松江へと向かった。
この日本の山陰地方の滞在で重要なことは教義も聖典も道徳規範もなにもなく凡そ宗教に値しないと当時の知日派のジャパノロジスト達が、神道を批判したのに対しハーンが次のように反論したことである。

「日本の神道を悪く言う者は、私が日本人と同様に母の国ギリシャや妖精の国ケルト(アイルランド)の心を持ち自然事象の中に人を超えた神性を見出す感性を持つことに困惑する人である。エセ文明人として神道やそれを称賛する私個人を認めなくないのです」

朝霧の杜の木立の中、幾筋の光りの差し込む風景の崇高さや高山の雲海を染め上げる茜の風景に我々日本人は神性を認める。それが天照大神と呼ばれる太陽神であろうと無かろうと、その理屈を越えた崇高さに頭を垂れるのです。

光りの中に、風の中に、創造を絶する大岩の中に、こんこんと湧く清水の中に人の命をつなぐ何かある基本のようなものを感じ取る感性こそ最も自然で根本的な宗教心の発露である。「神道には、哲学も、体系的な論理も、抽象的な教理もない」。そのまさしく「ない」ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗できたのだ。
 

神道は西洋の近代科学を喜んで迎え入れる一方で、西洋の宗教にたいしては頑強に抵抗する。これに戦いを挑んだ外人宗教家たちは、自分らの必死の努力が、空気のような謎めいた力によって、いつしか雲散霧消させられるのを見て茫然とする。それもそのはず西洋の最も優れた学者でさえ、神道が何であるか解き明かした者は一人もいないのだ。それは神道の源泉を書物にのみ求めるためだ。

現実神道は書物の中にあるのではない。儀式や戒律の中でもない。
あくまでも国民の心の裡(うち)に息づいているので、その国民の信仰心の最も純粋な発露である。

古風な迷信、素朴な神話、不思議な呪術―これら地表に現れ出た果実の遥か下で民族の魂の命根は生き生きと脈打っている。
 この民族の本能や活力や直観はここに由来しているので、神道が何であるか知りたい者はよろしくその地下に隠れた魂へと踏み分け入らねばならない。
 「日本人の魂は自然と人生を楽しく愛するという点でだれの目にも明らかなほど古代ギリシャ人の精神に似通っている。この不思議な東洋の魂の一端を私はいつしか理解できる日がきっと来ると信じている。そしてその時こそ古くは神の道と呼ばれたこの古代信仰の今なお生きる巨大な力についてもう一度語りたいと思う」

ハーンは母の国ギリシャや父の国アイルランドケルトの民族の地下に流れる隠れた魂の奥底でつながる精神構造が同じ日本の心であることを直感した。だからこそ外国人で初めて出雲神社への昇殿を許されたのであろう。
 仏と神と精霊の国日本で生涯を終えたハーンはこの時点でまぎれもない日本人となっていたのだろう。この後ハーンは島根熊本神戸東京焼津へとその精神が漂泊するがごとく人生の旅を続ける。松江では古歌からとられた八雲を自らの名とし、妻せつの籍に入り小泉八雲と名乗るようになった。

4、焼津にて
 焼津は私の生れ故郷である。古くは駿河と呼ばれ大井川の扇状地にありその中心が焼津村であった。明治時代東海道線が開通するまでは辺鄙な漁村に過ぎなかった。

私の少年時代までは城の腰と呼ばれた海岸通りに小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の滞在した山口乙吉宅があったが近年犬山の明治村に移築されてしまった。焼津も第二次大戦後、内港外港が整備され鰹鮪の水揚げでは日本有数の水産都市へと変貌した。

私の生家は焼津市との合併前の旧小川村にあり八雲の書いた漂流の舞台となる地蔵尊のある村である。奈良時代日本最初の駅制が敷かれた官道東海古道の一駅である。

大井川畔島田初倉駅から東へ一駅で、ここから旧焼津市外を抜け日本坂の要衝を越え駿河の安部の市そして府中へ抜ける。万葉集にも歌われた歌数編を残し小泉八雲が好む日本武尊の伝説の地でもある。
 
 次の章では八雲の長男一雄氏の書いた父「八雲」を憶う 海へ(焼津八雲顕彰会編)を参考にして話をすすめてみたい。

この中で八雲が示す日常生活はどのような意味を持つのだろうか。人間の思考によりもたらされる生活や文化や科学技術は大自然の内より生成されたもの。換言すればこの全ての世界は大自然が顕現したものである。幸福も不幸も戦争も平和もそこにある世界と一体となって生成流転していくのが人間生活の本質です。仏教ではこれを縁起といいます。縁起し新たな因縁生の繰り返す無常の現世で幸福を追求するということは正しい生活意味を把握実現しつつ生きるということに他ならない。

八雲が日常生活の中で示した幾つかのエピソードはそのことを意味しているのです。

明治30年の夏、八雲は家族を連れ始めて焼津を訪れた。水泳の得意な彼は波静かな海を好まず、海も深く波も荒いこの焼津の海が大層気に入り滞在することになった。焼津での下宿先は御休町(日本武尊が祭神の焼津神社夏の祭礼時、神輿市内巡行のさい人と神様がお休みする場所が数箇所あり私たちはこの場所を御休みと呼んだ。

下宿した町は「北の御休み」である。)の魚屋山口乙吉宅2階であった。一雄は父八雲が「土地の赤銅色の子供達を決して侮辱してはならぬ。もし焼津の子等と喧嘩するような事があれば、それは必ずお前の方が悪いのだ。お前の心に邪な点があるからだ。

焼津の子供はあるいは粗野かも知れぬが皆正直だ。決して嘘つきや意地悪は居ないのだから、彼等には常に温情をもって臨め」と厳しくいわれたことを述懐する。また寒村で暮らす当時の日本人と同様に教育も満足に受けなかったであろう魚屋の亭主山口乙吉を次のように語っている。

「彼を貞実な男、善良仁と常に褒め貴賎貧富老若男女の別なく誰にでも正直と誠意を以ってヘヘーイ!と接してゆく一本調子の好々爺の乙吉さんをあの人間嫌いの父はおそらく終生棄てられぬ唯一人の人であったと信じます」

「あんなに敏感でデリケートな神経の父が蝿と蚤と蚊の多い、魚の臓腑と干物の臭気が充満している中に漬け浸されているあの南北の風通を閉じた東西に烈日を受ける天井の低い2階の部屋を不平一つ云わずに月余をかりて愉快がって居たのは、焼津の海が気に入ったからのみじゃないのです。勿論ここには自分一行の他、東京や横浜の人が居ないからでもあるし、煩わしい訪客が殆ど無いからでもありましょうがこれ等もその原因の主たるものでは決してないのです。山口乙吉さんの人物に甚だしく心を惹かれたからです。父は乙吉さんを、乙吉様 オトキチ サーマと呼び、乙吉さんは父を先生様と呼んでいました。子供心にも余りに極端な賛辞だと思ったのは、音吉様、神様の様な仁です。と云う一語でした。」

 八雲は山口乙吉という表象の奥の奥で働く神性を直覚した。このような直感の人、八雲もまた神の人と呼ばれなければならない。

次は私のエピソードである。
「大分前自宅の天井で騒がしく動き回るネズミの音に悩まされたことがあった。そのうちにあちらの建具、こちらの木材とかじり始めたねずみに堪忍袋の緒が切れて、かのねずみを捕まえて殺すことばかり考えていた。ねずみ捕りを天井に仕掛けたが掴まらずついに毒入りの餌を天井の通り道へ置いてから一切の物音がしなくなったが死骸も発見出来なかった。
 餌を食べた為異常に気づき外へ出て死んだのか危険を察知し遁走したの判らぬが畳を横切る姿を一度目撃したのは子ねずみであった。」
 その私の体験に似たエピソードを一雄も紹介している。


一雄が父から英習字をさせられていた時、暗い廊下伝いに部屋の中までチョロチョロと一匹の子ねずみが出てきました。

「パパねずみが出ました」と知らせますと父も眼鏡を急いで取り出し是をみて、「静かにゝ恐れるやるないょき。」と云いました。しかしこの時既に彼は逃げてし舞いました。

ここ迄来る様では彼は空腹に違わない。それに東京から来たパンや菓子の香りが彼をこの部屋まで知らず知らずの内に惹き寄せたのであろう。「よろしい、あのプアー、ハングリー、マウスに少し進物をしましょう」と申して、包みの中からウエーファースを取り出しそれを部屋と廊下の境の敷居際へ置き、しばらくして出てくるだろうと待っていました。

案の定、5分の後出てきました。そしてウエーファースくわえるやいなやチョロチョロと戸袋の陰へ運び去りました。彼は又出てきました。今度は私が敷居より中へ 畳の上へ 投げ置いたウエーファースをくわえて再び戸袋の陰へ持って行きました。是が始まりでこの子ねずみはだんだん私等に馴れてきました。そして毎日出てきました。

しかもその時刻も一定していました。午後4時から5時へかけて必ず出てきました。父は泳ぎに行っていても、さあもうそろヾあの小さいお友達が訪ねて来る頃だから一先ず帰ってご馳走してやろうと申しました。

後には部屋の中へ何の恐れも無く這入ってきて私等の肘近く投げ与える食べ物を、持ち去りもせずその場で小さな両手にカリヾと微かな歯音を立てつつ食べるようになりました。ある日父は子ねずみがトーストの破片を自分の膝から一尺とも離れぬところで食べている様をじっと独眼鏡を目に当ててみていましたが、しばらくして「オー、プーア、クリーチュア 一雄、ルックアップ アット ヒム。パパのような盲目 ブラインド でした。」と叫びました。成る程、よく見ると、彼の片方の目は硯の海から今筆先を掬い上げた山椒の実の如く黒くつやヾと光っていましたが、他の一方は日陰にいじけて生った白難天の様に白く小さくどんより曇った眼の球でした。

子ねずみが自分と同じ不具者であった事を計らずも発見した父は更に不憫さを増したらしく、その翌日は今までよりはもっと彼を喜ばしてやろうとしてか彼の好物と思いし食べ物を沢山に準備して待ち受けていました。

しかし4時、5時、6時過ぎても7時、8時、灯火が点いても晩になっても出て来ませんでした。遂に彼はその翌日も又次の翌日も出て来ませんでした。何時も出てくる道に随分種ヾのご馳走を置いてやりましたのに一つも減りませんでした。可愛そうに、猫かいたちか梟か蛇に捕らえられたのだろう。多くの敵を持つ身の上だもの。

それとも捕鼠器にかかって非業の最期を遂げたのだろう。あれは少しも悪いことをせぬねずみだったのに、と申し父は切に悲哀を感ずるものの如くでありました。
 
この子ねずみ対する気持ちは私と大変な差がある。単純に良いとか悪いとかの問題ではないが八雲が惹かれた仏教思想の根本は「智慧と慈悲」である。いかに頭で理解してもその価値生活即ち慈悲の実践が伴もなわなければ八雲が自ら言うように「 カルマをする行為をすればそれが直ちに消えるのではなくて、その印象が残されていく。それが業となって蓄積されていくわけです。」

他の命への慈しみが無ければ悪い業の積み重なりにより印象という霊魂が悪しき輪廻を繰り返すということなのであろうか。

見えるものは見えないものの表れとしたら、見える底の底を見据え神道の心、大乗仏教の空性といってもいい境涯に触れていたからこそ、八雲はアイルランドが多く排出した偉大な詩人、作家と同質の才能で霊感の世界を描き切ったのだろう。

市井の一庶民の山口乙吉の誠実さを神と思い、小動物や弱きものに対する慈愛の深さは、まるで求道者の趣がある。少しエキセントリックな精神で人間関係の構築が苦手ではあったが、生きとし生きるものに優しき心を持った八雲は1904年9月26日 狭心症のため逝去した。享年54歳雑司が谷の墓地に葬られ法名は正覚院殿浄華八雲居士。


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