平塚らいてう
近代日本における女性運動家を二人上げるとしたら、先ずは平塚らいてう次に市川房江であろう。
大正から昭和にかけて活躍した女性解放運動家平塚らいてうが、文芸誌『青鞜』創刊の辞として書いた言葉である。
「今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような青白い顔の月である」と述べている。
大昔、女性は太陽のような存在であった。自ら生き自ら輝やいていた。しかし今の女性は自分の力で生きていないとして女性の解放を説き、女性の政治的社会的自由確立のために尽力した。
その創刊号の中での「原始、女性は、太陽であった」、この言葉はどのようなことを言っているのか紹介してみたい。
日本列島の最終氷河期が終わる頃(約1万8千年前)、北東アジア方面から細石刃石器を使う先鋭的集団が結氷するオホーツク海を渡り北海道に歩いて渡ってきた。
それが、モンゴロイド系古モンゴロイド(縄文人)である。
彼らの母系のミトコンドリアDNA、父系のY染色体は、極めて珍しい「D系統」の形質を持っていたことが分かっている。
このD系統は世界でも珍しく、日本人以外ではチベット人やインド洋のアンダマン諸島の人々くらいのものである。
朝鮮半島や中国人にはほんの少数しか認めらず、日本本土、アイヌ人、沖縄人に多数みられるD2は・・・ちなみに弥生人はO2b1(大陸系O系統)・・・
日本に多いのが特徴である。
このことは、原日本人は大陸や朝鮮半島経由ではなく、それを迂回して北と南から日本に来たといわれる。
加えて先住民(旧石器時代人)と混血したのだろう。
このD2の遺伝子を持つ人々が「縄文時代」を開いたというのです。
濃い眉毛、大きい目、二重まぶた、厚めの唇、要するに縄文人は、後世の「切れ長一重まぶた」の日本人とは違う顔立ちだったのです。
では、その「縄文時代」の暮らしぶりはどのうようなものだったのか。
氷河期が終わりを迎え、日本列島は動植物が繁栄する楽園ともいえる環境に変化して来ました。
男は狩猟・漁労、女は植物や貝類の採集を行う合理的な分業体制を持つ狩猟採集生活を行ってきたのです。
原始的な農耕生活の傍ら、海に出て丸木舟を操る効率的な漁労が行われていたという。
事実、船でなければ渡れない八ヶ岳山麓の巨大集落から伊豆諸島などへの遠洋航海の遺物が遺跡から出土している。
日常生活では調理設備らしき土器や包丁の制作が行われていた。こうした道具を使う暮らしが実に1万年以上も続いた。
以前私はこのNoteに日本の縄文時代は世界に類例にないほど豊かでバラエティに満ちた「文化」を持っていたと書いています。
洗練された土器や石器が発明発見され継続したのは、男性目線、女性目線の双方から考えられたもので、換言すれば男と女の「同権思想」があったからこそ生まれたと断定できる文化なのです。
縄文時代の便利で使い良い道具の発展は実際の経験の中で生まれ、「男も女」も家事(調理)を平等にこなしてきたからなのです。
次は、1万年以上も前から作られていた土偶についてです。
縄文期の物とされる発見された土偶のほぼ全部が女性像です。
これも以前書いたが、縄文中期の国宝縄文のビーナス像は女性崇拝の頂点に立つ象徴と理解できます。
生き物は「子孫を残すこと」が生存の目的で特に人に於いては、一番大事なことは子供を産み育て子孫を残す事です。
こんな自然思考が原始では普通でしたから、子を産み育てる女性を崇めるのは極めて自然な感情だったのでしょう。
縄文時代は乳幼児の死亡が高く平均寿命は30歳前後と思われます。
ですから村の繁栄は人口増加に支えられていたのです。
女性全員で子供の養育にあたりました。
ですが当然のように死はやってきますがそれは、再生の象徴と捉えられました。
祭祀場や墓場の環状列石、各種道具、土偶の文様には死と再生の循環を示す渦巻き紋が多く描かれました。
渦巻き紋は子宮を表す文様で再生を示します。このような象徴の仕方は産み育てる女性優位の社会が縄文であったことを示します。
寿命の短い共同体の人口を減らすわけにいかないため、他部落との戦争も極力避けられました。
武力闘争を嫌う女性特有の優しい平和社会があった事を損傷が少ない埋葬人骨の事実から窺い知れます。
平塚らいてうの「原始女性は太陽であった」の原点は縄文の輝かしい女性優位の社会だったのです。
共に人生を歩むのを決めたけど、国が決めた「結婚」の制度には縛られたくない。
それは、自分の姓を捨てることになるし、そもそも、結婚制度に保証してもらう二人の関係自体が嫌だ。
だから、籍を入れずに今でいう「事実婚」ってやつ?まあ、正確には「共同生活」を始めようと私は決めたの。この話はね、100年以上前の大正時代の女性の話なの。
・・以上は女性解放運動家の肩書で紹介される「平塚らいてう(らいちょう)」の結婚観を書いたものです。
「私たちは愛するもの同士なので、日本婚姻法に定められているような夫と妻との関係ではありませんし、また、そうあってはならないのです。
「自分が納得しえない法律で自分たちの共同生活を承認し、また保証してもらわなければならないなんて、そんな矛盾した、不合理なことができますでしょうか」
平塚らいてうはその著『平塚らいてう わたくしの歩いた道』ではこのようにいっています。
今思えば「時代の先取り」ともいえる「平塚らいてう」の結婚観でした。
明治から大正にかけて、女性は従属した立場に置かれていた。
女性が勉強に励み、キャリアとして立身出世するなど、当時は逆立ちしても考えられないことであった。
そんな時代に、平塚らいてうを中心に女性ばかりで『青鞜(せいとう)』という雑誌を発刊する。
明治44年(1911年)9月のことだ。当時は「女だけで作った女の雑誌」という理由で大いに反響があった。その初刊に際して、平塚らいてうが寄稿した文章の始まりが「原始、女性は太陽であった」という先ほどのフレーズである。
このインパクトある言葉に、抑えられていた日本中の、とりわけ若い女性が自我を解放した。
平塚らいてうは女性解i放運動家といわれるが、彼女の出自や経歴、自伝を読めば、どちらかというと、迷いながらも自我に目覚め、必死に「自分」という存在に真正面から挑んだ女性という印象を持つ。
当時の時代背景、また周囲が求めていた役割に、ちょうど平塚らいてうが当てはまった結果のことなのだと、らいてう研究者はいう。
そもそも「平塚らいてう」はペンネームだ。「らいてう」とは「雷鳥」という鳥の名前だ。山好きの私はこの鳥に高山で何度も遭遇したことがある。
この鳥は季節により環境に同化するよう羽毛の色を変えたり、天敵から身を守るための行動習性をもつ賢い鳥で、言うなれば周囲の空気感を読める鳥なのだ。
この『青鞜』の寄稿文を書いた際にふと頭に浮かんだのがこの鳥だったというが時代の空気を読み取る嗅覚が優れたのが自身の特性と感じての命名かも知れない。
本名は平塚明(はる)。明治19年(1886年)に会計検査院検査官である平塚定二郎氏の三女として生まれる。12歳で女子高等師範学校附属高等女学校(通称お茶の水高女)に入学、17歳で日本女子大学校家政学部へ進む。
本来ならば英文学部を志望したが、父の反対で家政学部に落ち着いた。卒業後は、もともと関心のあった英語を習うため、女子英学塾や私立成美高等英語女学校などに入学し、勉強と座禅の毎日。哲学や仏教、そして文学にも興味があったという。
お茶の水高女時代には、封建的な教育制度に反発し、級友と「海賊組」を作ったエピソードも。
臆することなく自分の気持ちや考えを表現し、真っ直ぐ突き進む性格だったようだ。
『青鞜』という雑誌の趣意書には「婦人もいつまでも惰眠を貪っている時ではない。早く目覚めて、天が婦人にも与えてある才能を十分伸さねばならない」と書かれている。
これも、当時の日本人女性に対するらいてうの率直な気持ちなのだろう。ちなみに『青鞜』とは18世紀のロンドンで流行った「ブル―ストッキング」からのネーミングだ。
サロンで盛んに芸術や科学を論じた新しい婦人たちが、青い靴下を履いていたことが由来だとか。
何か変わったことをする新しい婦人への嘲笑的な意味合いの言葉を予め名乗って先手を打とうとする気概が並大抵ではない女性であったということをあらわす。
平塚らいてうが世間から最初に注目されたのは『青鞜』の発刊ではないという。
スキャンダルで、新聞を賑わしたことだ。
それが「煤煙(ばいえん)事件」、いわゆる文学士との「心中未遂事件」である。
当時の平塚らいてうは、またペンネームを使わない、ただの明(はる)であった。
22歳の彼女は、英語などを学び、相変わらず禅寺で自分が何者であるかを模索していた。
その頃、成美女学校の中に女性たちの文学研究会「閨秀文学会(けいしゅうぶんがくかい)」が生まれる。
その講師だったのが、心中未遂事件を起こす森田草平(もりたそうへい)氏である。平塚らいてうよりも3、4歳年上の文学青年であった。
二人のきっかけは、閨秀文学会の回覧誌に平塚らいてうの短編小説『愛の末日』が掲載されたことによる。
あらすじは、若いインテリ女性が相手の妥協的な態度に愛想を尽かして、恋愛関係を清算して地方の女学校へ赴任するというもの。この作品に対して、森田氏が長い批評の手紙を送ってきたのだ。
らいてうは森田草平氏を「陰性のはにかみや、話も上手とは言えない、気分的な、空想的な、ひとり合点のところが多い」と評し、かえってそれが「愛嬌、魅力」と分析していたようだ。
まあ、なんとも、芸術家の特徴ばかりが際立った人物なのだろうと以後、二人は手紙のやりとりを続けていく。手紙といっても、勝手な夢や独り言を各々がつぶやくようなものだったとか。
ちなみに、らいてうは好奇心の塊のような人だった。そのため、誘われればどこへでも一緒に行ったとされている。あとに、女学校の友人とは異なる別の興味やスリルが味わえたからと、自伝では明かしている。
ただ、一方で「永久には噛み合うことない2つの歯車」とも。こんな二人のボタンの掛け違いが、スキャンダラスな事件へと発展していくのだった。
事が起こるのは明治41年(1908年)3月21日。朝、らいてうが通っていた浅草の海禅寺に森田草平氏が訪ねてくるところから始まる。らいてうは散歩かと思って付き添ったが、着いた先は蔵前の鉄砲屋だった。いきなり入って、森田氏はピストルを注文したという。らいてうは自伝の中で、これまでの森田氏からの手紙を回想している。「人は死ぬ瞬間が最も美しい、私は芸術家だ、詩人だ、美の使途だ、あなたを殺す、
そして「最も美しいあなたを冷静に観ようと思う」などの文言が書いてあったというのだ。
らいてうからすれば、その場その場の興味として捉え、まさか本気とは思っていなかったようだ。この時点で、一般人であれば警察署へ即ダッシュ。ただ、やはり彼女は度胸が違う。
らいてうは、いったん帰って家出の準備をする。
当時アルバイトとして行っていた速記の仕事も、受けたものを終わらせ完結させている。
これから心中するかもしれないという状況の中で、非常に冷静に行動している。
また、友人の一人に家出のことを告げ、日記などを燃やしてくれるように頼んだようだ。そうして、部屋を整理し、お線香を一本あげてから、母の懐剣を持って家を出たのであった。
田端駅で待ち合わせをした二人は、行先を決めず列車に乗り込む。着いたのは、栃木県の塩原温泉の尾頭峠(おがしらとうげ)。
雪深い山中であったという。
あまりにも現実的ならいてうを前にして、森田氏はビビったのだろう。「ヤバい。えっ?本気で死ぬ気あんの、この人?」的な。よく、言うではないか。
自分よりも緊張した人やパニックに見舞われた人を見れば、正常な精神状況に戻れるのだとか。きっと、そんな感じだろう。案の定、山中にて森田氏は「殺すことはできない」と、らいてうの母の懐剣を谷底に捨てている。
気持ちが変わったのだ。いや、死ぬ気など最初からなく、引くに引けなかったようにも思える。らいてうはというと、自伝の中でこの時のことを「虚無のような気持ち」と表現しているが、一転して、次の瞬間には「私は山をのぼるのだ、早く雪の山頂をきわめよう」と、俄然積極的になって山を登り始めている。
3月24日、こうして尾頭峠の山中を彷徨っていた二人は、巡査に保護される。
この心中未遂事件は、当時マスコミがこぞって取り上げた。というのも、らいてうは当時女子の最高学府の一つの日本女子大学校、森田氏も東京帝国大学と、高学歴同士の男女だったからだ。
ただ心中未遂の真相はというと、よくある男女の関係がこじれたなどの理由ではなかった。単に芸術家としての「死への興味」といった類の、一般人には到底理解できない理由であった。
その後、らいてうは信州の山で半年ほど静かに過ごす。よほど、この騒動がこたえたのだろう。しかし、以降は『青鞜』を発刊し、女性解放運動へ繋がっていくのである。
今度という今度は平塚らいてうは、互いにお互いを直感したという。大正元年(1912年)26歳のらいてうは、既に『青鞜』を刊行して、働く女性として自立しつつあった。そんな時、偶然にも仲間と訪れていた神奈川県茅ケ崎で、まだ若い奥村博史(おくむらひろし)と出会いをこのように表現している。
彼は美術学校に通う5歳年下の青年であった。鮮烈な出会いだったのだ。文学だからというのを抜きにしても、その直情的なニュアンスが今でも激しく伝わってくる。人間的な魂の揺さぶりというよりは、強烈な異性として意味合いだった。
このドラマティックな出会が、予期せぬ試練として待ち構えていた。あろうことか、本来ならば応援してくれるはずの友人が、嫉妬により二人の邪魔をしたのだ。
平塚らいてうの友人である尾竹紅吉(おたけべによし)と、奥村氏側の友人である新妻莞(にいづまかん)。ともに、らいてうと奥村氏を独占したがるような傾向が二人にはあったという。
特に奥村氏は相当参ったようだ。紅吉からは脅迫状や絶縁状などが届き、友人からは勉強中の身だと散々説教される。外野の騒音に耐えきれず、とうとう奥村氏はらいてうの前から姿を消す。
ちなみに、この邪魔者の一人だが、かの有名な「若い燕(つばめ)」という流行語を生みだすことになる。
「若い燕」とは、俗に年上の女性の愛人である若い男の意味で、現在でも使用されている言葉だ。まさか、語源が平塚らいてうに関係あるとは驚くばかりだ。今となっては、知る人も少ないだろう。
さて、他人の思惑ですれ違った二人だったが、意外にも早く再会を果たすことになる。きっかけは、帝国劇場で上演中の「ファウスト」。皮肉にも仲を引き裂いた紅吉が、奥村氏の出演に気付き、らいてうに知らせるのだった。
らいてうは楽屋に深紅のバラの花束を届ける。この9ヶ月後の再会から、急速に二人の関係が発展していく。
大正3年(1914年)、二人は「共同生活」を始める。あえて婚姻届を出さずに、日本の「婚姻制度」から脱却することを目指したのだ。
当時は自由恋愛からの結婚は「野合(やごう)」と呼ばれ、世間から非難を浴びた。
それでもらいてうは諦めず、さらに「結婚」と区別した「共同生活」という言葉で、二人の関係を世に知らしめる。のちに二人の子供を授かるが、旧民法に則って分家し、らいてうの戸籍に入れて育てた。ただ、兵役に不利があることを知り、最後は息子を守るため、婚姻届を提出
人生は何度も選択の繰り返しだ。振り返っても、結局どの道が良かったのか、分からない。
それでも、自分の直感を信じて進むしかないときもある。江戸時代が終わり、新しい風が日本に吹いた明治・大正時代。それは政治の力だけではないのだろう。平塚らいてうのように、迷いながらも自分の信念を貫いた人たちの人生の積み重ねで、時代は進むのだと思う。
まだ家としての結びつきが強かった時代に、あえて一人の人間としての結びつきを重視したらいてうだった。
あれから100年。
ようやく、時代がらいてうに追いついたのかもしれないと識者は言う。
後半部分の記述はWeb記事を借用した。