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最後の将軍その2


水戸は水戸黄門の時代より、代々勤皇の家系で、将軍職はあくまで京都朝廷より委託されたものとし、「徳川と朝廷との間に万一争いある時は、水戸は朝廷につくべし」が「水戸学」の根本行動指針である。

最後の将軍慶喜もそれを継承していたことは十分窺い知れる。

しかし当時の朝廷筋の、西洋理解は「群盲象をなでるが如く」で外交以前の問題であった。

江戸湾の奥深く侵入したペリー率いるアメリカ艦隊は日本の近代軍事力を侮り不敵にも測量まで強行した。

外敵から天皇を守り安んじること、即ち尊王攘夷を呼応し実行することが朝廷から与えられた将軍の称号と権利の本質であるとする水戸学派は朝廷の勅許をえず開国を決定した大老井伊直弼を糾弾し全国的攘夷のスローガンを国内世論として統一し対等な立場で西洋列強と交渉するよう幕閣に迫った。

結果は井伊直弼の勘気を受け慶喜は江戸城出仕停止自宅一橋家謹慎の咎を受けた。

当時の日本の問題は内政的には幕府の諸藩に対する指導力の低下と外交的には家康以来の鎖国政策維持の困難であった。世情は騒乱としていた。

水戸学の牙城は弘道館といい水戸藩の藩校だ。

日本最大規模の藩校であり、レベルも高かったらしい。慶喜も5歳から11歳まで、ここで学んだ。

彼は、一橋家の養子になり、徳川宗家を嗣いで最後の将軍となったが薩長に破れて大阪に再集結した幕兵を残し大阪城を脱出した後恭順の意志示し謹慎したのもこの水戸弘道館であった。

慶喜が幼少の頃から叩き込まれたのが、儒教・朱子学から多大な影響を受けた水戸学だ。水戸学の至上命題は、

尊皇思想 天皇をいただく朝廷を尊ぶ思想だ。つまり徳川御三家でありながら、家康直系の血を引く家柄でありながらも将軍家よりも朝廷が大事というのだから端から見ると少し戸惑うのである。

これの思想が斉昭が創立した藩校弘道館を通じて直系子弟、家臣達に純粋培養された。この思想はある面とても危険な思想で、彼ら発の尊王攘夷運動がいつの間にか倒幕運動にすり替わったのだ。

薩摩長州は外国船うち払いを断行し西洋と交戦状態となった。彼らは彼我の戦力差を知り、幕府はその賠償の詰め腹を払わされさらに弱体化していった。

ですから水戸藩は、徳川幕府の譜代の高官や親藩の上層部から嫌われていたし多くの幕閣はアンチ水戸であった。特に江戸城大奥は斉昭と慶喜を嫌っていた。然し皮肉なもので後の慶喜の助命を取り直したのは大奥の女性、篤姫と清閑宮(皇女和宮)であった。

水戸学は、妥協を許さない原理主義に似ている。原理主義というより純粋主義といったほうが良いのかもしれない。

朱子学も同じで、朝鮮王朝での熾烈な権力闘争も、この学問的短所が災いしている。結果として朝鮮は発展が遅れ日本の植民地となった。

白か黒か敵か味方かと二者択一的で、妥協しないのが原理主義。徹頭徹尾敵対者を叩きのめすのだ。

水戸藩の水戸学信奉者と朝鮮王朝の朱子学信奉者は、よく似ているといわれる。

しかし水戸学の信奉者は、ピューリタン革命時のピューリタンのようなすさまじい行動力がある。

譜代筆頭の彦根藩の当主で、幕末に大老となり、安政の大獄を断行した井伊直弼を桜田門で暗殺したのも水戸浪士だった。

これで徳川幕府の権威は失墜した。慶喜は、この水戸学を純粋に継承し培養したエリートだった。

彼は精力旺盛な斉昭の7男だったが、幼少の頃から聡明をうたわれ、斉昭の一番のお気に入りだった。

だから斉昭は、我が子を将軍にと画策し、その意を受けた老中が動き、ご三卿の一つ、一橋家の養子となったのです。

水戸藩は、ご三家ではあるが、紀州や尾張とは異なり将軍を出せない家柄であった。

紀州徳川の始祖と水戸徳川の始祖が、(父は徳川家康)同じ母から生まれた兄弟(水戸が弟)だったことも、関係があるのだろう(尾張徳川の始祖だけは、母が違う)。

紀州から将軍家の養子となり将軍となった吉宗が、将軍家に世継がない場合、自分の子孫を始祖とする「ご三卿」から養子をもらうという遺命があったので、一橋を嗣いだのだ。

そして慶喜は、将軍になった。

これが結果的に徳川の存続よりは天皇家の存続が大事とする水戸学の信奉者継承者を自認する慶喜であれば徳川幕府の滅亡を確実なものにしたといえる。

鳥羽伏見の戦いの敗北後も、軍事的には徳川幕府に勝機があった。

徳川慶喜には、日本最強の海軍があった。慶喜が軍需物資が豊富な大阪城に立て籠もり、徹底抗戦して時をかせげば、戦線がのびきっている薩長軍の武器や食料がつきる。

薩長が軍事物資を補給するにも、徳川海軍が大阪湾を封鎖すれば、補給路を断たれる。大阪城には、東海道を抑えている桑名藩などを通じて海路、豊富な軍需物資が届くのだから籠城には一定の合理性があった。

結果として慶喜は『ヤルヤル』さぎなのだ。大阪決戦も江戸決戦もすべてやると宣言しながら味方を欺いた。

徹底抗戦といいつつ反対の恭順へと幾多の周囲の者をだまし続けた慶喜の演技力には恐れいるのだ。後醍醐天皇を吉野に追いやり後の世から逆臣、朝敵と侮られた足利尊氏の故事が頭に浮かんだのだろう。鳥羽伏見戦の最中、薩長に錦旗が下賜され慶喜は朝敵になった。これは強力だった。

今まで私はその事実を軽く見て敵前逃亡は命を惜しむ慶喜の迷走であると断定していたが、水戸学の尊王ということを考えたなら朝敵の汚名をそそがねば、本家には泥を塗れないとする慶喜の行動が理解できるであろう。

「三つ子の魂百迄も」は日本の特攻、イスラムの自爆テロといい幼いころからの教育のなせる業であろう。

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