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不用の用

体用論は中国哲学上の概念。本体と作用の略称。本質とその現象の意。現象の内奥にその根源者・本質をみようとする考え方は老荘思想にある。その考え方は、仏教が流入して「事」と「理」と表現され、とくに華厳(けごん)哲学において論議が深められた。体用論は幾度かこのNoteで書いてきたので割愛するが似たようなものに不用の用という言葉がある。

不用の用
世間の役に立たないとされているものが、別の意味で非常に大切な役割を果たすこと。役に立たないことがかえって有用であること。
これに関してこんな話がある

{石(せき)という大工の棟梁が斎(せい)の国を旅していた時のこと。

ある所で巨大な橡(くぬぎ)の木が、神木として祭られていた。
 その大きいこと、木陰に何千頭もの牛が憩うことができる。
  幹の太さは百抱え、高さは山を見下ろすほどであった。

この巨木を一目でも見ようと、わざわざやってくる者がひきもきらず、
 あたりはさながら市場のような賑わいである。
  石の弟子たちもその檪の木に見とれていた。

ところが棟梁の石は見向きもせずに巨木を通り過ぎてしまう。
 弟子たちは
  「親方、今までこんな立派な材木をみたことがありません。
    それなに目もくれないようとするのはどういうわけですか」
     と声をかけたところ、こう答えた

「生意気なことをいうな。あの木は何の役にも立たない。
  舟をつくれば沈んでしまうし、棺桶をつくればたちまち腐ってしまう。
   あんなに成長できたのも、もとはといえば無用だからである」

さすがに棟梁だけあって見るべきところはしっかり見ていたのだが、
 その棟梁が家に帰ってからのこと。

夢に現われた橡の巨木の霊にこう言われたという。

「人も物も、みな有用であろうとして命を縮めている。だがわしは違う。
  今まで一貫して無用であろうとつとめてきた。
   そして遂に、そうなることができた。
    おまえは有用であろうとして命を縮めている。
     おまえとはわけが違うのだ。」}

老荘思想の根本である『老子』の教えが、無用の用 、見える存在がもたらす便利はがあるからである。

作陶で粘土をこねて器を作るとき器には空間という無があるから容器として使える。

家も、空間という無があるから建築して住むことができる。これを「無用の用」というべきであろう。

茶事に興味のある人は、茶碗の「形」や「色つや」に関心が向きます。
しかしお茶を入れる「空間」に着目してこそ茶碗としての存在があります。

自宅の建築も本当に欲しかったものは建物自体ではなく建物の中に生まれた「空間」であり、そこで過ごす「時間」なのです。

空間があり、時間があるから物ごとの価値が生まれ真実の生き方が達成されるのです。
仏教では人間を「じんかん」と読みます。
人は一人では生きていくことができないことを比喩して人と人との「間」を生きているのが人間とするのです。

ある人のすべてを収納する器をとかんがえたなら、
支えあう仲間や時間を大切にし、そして空間をきれいにすることです。
私と貴方の人生の大切さは何かと言えば、共有した「空間」と「時間」です。
その中にすべてがあります。

茶人が茶碗を外側から眺めた時造形美だけをみるのではない。茶碗を持ち上げた時の重さ、手で触ったとき、茶を飲むときに口を触れた感覚も含まれているのです。

視覚のみで利休の美意識を捉えることはできないという。茶を飲むという身体感覚を媒介にして共用された「失われた時の記憶」を共によみがえらせるのです。

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