道元 episode2 中国へ
(写真は栄西、道元が修行した寧波の天童禅寺)
道元は、鎌倉時代の1200年(正治2年)1月26日(陰暦では1月2日)に京都で生まれた。
父は内大臣久我通親(こがみちちか)、母は摂政関白藤原元房の女(むすめ)伊子(いし)であるといわれる。
幼少より聡明さを発揮し9歳で倶舎論・・現実世界のことから宇宙の構造、輪廻、煩悩、悟りに至る段階などについて説明する難解な論書・・を読んだとの逸話が残っています。
3歳の時に父を亡くし、8歳で母の死にあい人の世の無常や悲しみを一度に体験した。そして無常を強く感じたその心が仏道へと一心に進む動機となったのです。
幼少期の名前は文殊丸。文殊菩薩の智慧にあやかった幼名でした。 父と母はともに優れた歌人であり、小さい頃から貴族のエリート教育を受けてきたとも言われています。
文殊丸の名に負けず、聡明さは4歳で中国語の難しい歌集も読み切ったとの世評もあります。
父母を早くに亡くした不幸の人でしたが貴族の家庭で育ったことは一般庶民に比べれば不自由のない生活を送っていたといえます。
時代は鎌倉初期、このまま成長すれは公家社会を生き抜いていかなければなりません。
「この泥どろと清濁併せ呑むような駆け引きの世界に息子を放り込むことはできない」
とは生前の母のたっての願いでした。
母は幼い息子に仏教の道に進んで欲しいと遺言を遺したのです。
利発な道元は幼子ながらこの母の死を仏教の説く無常観と悟り、母を見とった直後から、貪る様に仏教書を読み漁る様になります。
仏教書を 一心に読むことによりその最愛の母の死の悲しみを忘れようとしたからでしょう。
そして、14歳のとき、日本仏教の最高峰、天台宗総本山である比叡山で出家することになります。
然し日本仏教は末法的な社会不安の中でどうしても解決できない問題を抱えていました。そのことの疑問が道元の中にも生まれてきたのです。
それは「本来本法性・天然自性身」ということなのですが、生まれながらにして仏であると説くこの教えに対して、
「ではなぜ人々は爭いを起こすのか」「人間は本来、仏の心をもち、生まれながらに仏の身体を有している」というならば、
「仏となることを願い、厳しい修行を積む必要が何故あるのか」という疑問です。
道元はその答えを深く考えても見つけることは出きません。
比叡山の知識といわれる学僧に質ねても的確に答えてくれる人はおりません。
中国から臨済禅をもたらした京都の建仁寺・栄西禅師のもとを訪ねます。この時19歳でした。
建仁寺の後を継いだ明全和尚に師事し、臨済宗の禅を学びますが、これでも若き道元の疑問を説くことはでき無かったのです。
そして、栄西禅師が真の仏法を求めて中国に渡ったことを受けて、
「自分も中国へ行って行って。真の仏法を学びたい」という思いに至ったのです。
23歳、この時、もはや日本では仏の教えの疑問を解くことは困難と考え、日本を出て、中国に渡ることを決心をします。
釈迦の説いたインド仏教はイスラムやヒンズー教の圧迫を受けインドでは衰退し代わって中国の地で仏教は花開いていたのです。
船で一ヶ月から一ヶ月半もかかってやっとの思いで到着した中国の港寧波,しかし、そう簡単に、師と仰ぐ僧には出会うことができません。悶々とした日々を船上で送っていました。
そんなある日寧波港の船上で、道元は一人の中国僧と出会った。
時は、中国の嘉定16年(1223年)五月頃、道元にとって大きな出会いであった。
60歳ほどの禅僧が倭椹(椎茸)を求めて船にやってきた。当時中国には椎茸がなく日本の特産品であり中国向けの主要産品だったのです。
当然道元の乗った日本船には椎茸がたくさん積まれていた。
すでに一カ月も船中に留まっていた道元にとって、初めての中国の禅僧との出会いであったのです。
さっそく声をかけてお茶をふるまったところ、この僧侶は、明州の阿育王山という修行道場の典座(食糧の調達から調理や給仕まで、すべて司る責任者)だった。
五月五日の端午の節句を翌日にして、修行僧たちへの供養の材料を買い求めに来ていたのだった。
典座は、5,6六里の道を歩いて港までやってきて、買い物を終えたら直ぐに帰るということだったが、いろいろ話したいことがあった道元は典座を引き止めて更に接待しようとした。
しかし典座は、典座という役職の大切さを道元に説き、帰って行った。道元は、この典座から、修行とは坐禅をしたり語録を読んだりすることだけではなく、日常生活のあらゆることが大切な修行であることを教えられたのだった。
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