新島のくさや物語そして観光
「くさや」は魚の干物の一つで、身を開いた魚を「くさや液」と呼ばれる発酵液に浸け込み乾燥させたもの。
300年以上前の江戸時代中期からつくられる伊豆諸島の特産品だが、新島が元祖とされるようだ。
新島のくさやは島の人々の知恵と、地形や気候、自然環境などが重なったことで生まれたといわれる。
私は静岡県焼津市で生まれ育ったが、祖父の一代前がルーツである。父親とその弟、姉妹、私の長兄も既に亡く詳しい我が家の消息はわからないが確かな事実は父親が1歳のころ一家が伊豆諸島の新島へ渡ったことだけである。
その理由が失火だという。どの程度の被害があったのかは不明だが住む家を失くしたのだろう。
当時の社会風潮から一家は地元にいずらくなり伊豆半島の先、海上の島、新島へ「ぐさや」の製造に人生の再起をかけ親子3人で移住したというのだ。明治41年のことである。
我が家は代々焼津に水揚げされた魚の加工業であり私が物心つく頃には各種干物製造や鰹節の製造に明け暮れていた。当時新島から持ち帰ったくさやをつける原液のカメが保存されていて異様な臭いに子供心に辟易した記憶がある。
新島育ちの父親からわずかであるが島での生活を聞いた記憶がある。父親の兄弟姉妹は焼津生まれで先妻の子でもある長姉の叔母に始まり同じく焼津生まれの長男の父親、その下の新島生まれの叔父2人(下の叔父は帰島後5歳で養子先の藤枝で亡くなった。)そして2人の夭折した叔母、焼津へ戻ることができた新島生まれの叔母2人である。
兄弟姉妹はとても頭がよく特に長姉の叔母、父親、弟の叔父は優秀な成績だったと聞く。当時、明治や大正の初期どんなに学校が出来ても庶民の子弟は上級学校への進学は少なく夫々家業を継いだり、奉公に出たりするのがふつうであった。
祖母の出は駿河の国焼津村の隣接地、当時の東益津中里村である。父親、村松五郎衛門は戦国から続く豪農の家を守り何よりも徳川四天王の一人彦根35万石藩祖井伊直孝を輩出した家の子孫として誇り高い人であったと聞く。
祖父が新島行きを決意し焼津での生活をたたみ新島での再起をかけることを妻である祖母に打ち明けた時、長男であるわが父親が未だ1歳の乳飲み子という事情と当時は流人の島というイメージが色濃く残る新島での予想できない一家の将来を思い煩い父親の五郎衛門に自分(母子・・子とは私の父親)だけでも実家で引き取ってくれるよう頼んだらしい。
しかし徳川幕藩体制を築いた大老井伊直孝を生んだ女性の末裔として、亭主がこのような苦境に立たされた時こそ家庭の支えが大事であると強く娘を説得し島への同行を勧めたという。
島で成長し小学校を卒業した父親は乞われて新島の役場に入ったようだが(その時のエピソードを聞くも後日の話としたい)最終的には故郷焼津に戻り家業の魚屋を継いだ。故郷には当時尋常小学校4年の長姉のおもと叔母さんが島へ同行せず一人残された。
当時の日本での庶民は暮らしに終われ、商売屋では家族総出で働くのがふつうであった。例に漏れず先妻の子であるおもと叔母さんも毎日家の仕事を手伝わされ満足に学校へ行けなかったがオール甲(5)の成績であった。
そのため卒業だけでもさせてやりたいという学校側からの誘いがあったのだろう新島へはいかず焼津の「すたつ」という鰹なまり節製造業の家に奉公に入ったという。家族と離れ離れになった叔母はおそらく奉公の合間を見て学校へ通い卒業したのだろう。
くさやの干物の材料は魚と塩と「くさや液」のみ。その日漬け込む魚の量に合わせて塩を足し、くさや液の塩分濃度を調整する。
塩は幕府に献上する貴重品であり、節約の意味で干物にする魚に同じ塩水を何度も使っているうちに、液を吸った魚は風味が整い発酵が進んだという。家々や各製造場でそれぞれはそれぞれに秘伝の味を守り育ててきたようだ。
新島には昔、くさやを作る製造場がが50軒以上あったという。その内くさやに必要な新鮮なアオムロアジが入手し易い新島で(くさやの)製造法を学びながら東京築地市場に新鮮なくさやを出荷する目的で焼津の水産加工業者が出張って経営していた製造場が数軒あったのではと推測される。
同時期、私の祖父母一家もそんな一旗組で、行動を共にした同郷の仲間がいたようで新島では支えあって暮らしていたという話だ。
くさやの主流はアオムロアジ。脂が少なく乾燥しやすいトビウオも重宝される。マアジやサンマ、サメ、ウツボ、イワシ、キンメダイ等々いろいろ作ったようである。
くさや菌は抗菌性細菌といわれる乳酸菌の一種。通常の干物づくりは18~20%の塩水を使用するそうだが、新島のくさや液は4%~8%程度と少なくその分塩分は控えめで現代風に言えば健康志向的な商品だ。
新島では島外の人も加わりくさや生産が盛んとなり、その大部分が大消費地東京に供されたことで、その品質の良さとともにくさやは新島というブランドイメージが作り上げられた。
いわゆる伊豆諸島は大 島 、利 島 、新 島 、式根島 、神津島 、三宅島 、 御蔵島 、 八丈島 、八丈小島の九島を数える。火山に起源を有する島々から成る伊豆諸島は、大島、利島、三宅島、御蔵島、八丈島の玄武岩を主とするものと、新島、式根島、神津島の流紋岩より成る島々と二つに大別出来る。
新島、式根島、神津島の流紋岩系の島は、海上や海底の地形が変化に富んでおり暖流である黒潮が北東方向に流れている。その海流に乗りカツオ、マグロ等の回遊性浮魚類の経路にあたるととも複雑な海底地形が地場魚を集め豊饒な漁場となっている。当然島々の歴史はそれら漁業の歴史であり水産加工発展の歴史である。
しかし、3万年以前古代史にはこんな事実があった。日本の石器時代を劇的に変えた神津島産黒曜石の石器材料が静岡県の各地から発掘されている事実である。当時人が伊豆諸島に住み着いていた確証はさておき、いかに伊豆諸島と私たち静岡県(駿河、伊豆、遠江)の交流が古代から身近なものであったかが知れるのだ。
近世になり伊豆諸島には流刑 が本格化する。江戸をはじめ大消費地には罪を犯す者の罪状が多様化・大衆化し、いわゆる「厄介な者たち」が島へ大量に送られるようになった。
江戸時代後期に書かれた新島の史書にはまたこんな記述がある。「新島には船懸かりの出来る湊はなく、穏やかな日には西面の荒浜(前浜)に船が着けている。外国船の入津はない。島内の食糧が不足するので、干物 ・鰹節 ・薪などを江戸や下田へ積み出し、帰りに米穀や食料などを買い求めていた。
上記の記事は、当時から新島は火山性で保水性の乏しい砂地であるために畑作には苦労していたことが見て取れるのだ。
ですから穀物類も生産性は低く、不作年にはたちまち飢餓状態に陥いった。 このため、導入された甘薯(サツマイモ)の移植が成功し、まさに食糧革命として島人の生命を守った。
新島が伊豆諸島の中で最も海の幸に恵まれていたのは、1774年の記録に残されている。 複雑な海底地形が生む魚礁が近いばかりではなく、枝島の式根島を所有し、穀物野菜のの生産が少ない分、漁業が他の島々に比べ依存が高かく盛んであった。
島の人口はの他の島々の中では最高の1.885人、流人数 109人、運搬船 8 隻、漁船46 隻とある。離れ小島とはいえそれなりに生活基盤があり流人がもたらした都会の文化も根付いていたのが新島の特徴だったのだろう。
伊豆諸島では鰹漁は古くから行われていたが、鰹は鮮度が命の魚で漁獲したら直ちに加工する必要があった。陸揚げされたカツオは時間を置かずに鰹節にされる。海運により大消費地江戸までは近いという地の利のある伊豆諸島の鰹節が、江戸で持て囃された理由は、その持ち込みの迅速さによる鮮度であったと考えられる。
祖父角太郎が新島へ再起をかけて乳飲み子を背負い駿河を離れ新島へ渡ったのはこのように大消費地である東京(江戸)が海運により近かったということが大いなる動機であったのだ。ここでなら孤島とはいえ豊かな漁場があり何によりも自分の得意とした干物製造で成功の手立てを見出したからであった。
駿河の焼津でも当時は豊漁になれば地元だけでは消費できず換金目的のため大消費地に送らねばならない。しかし遠距離と交通網の不備による商品の遅速のため鮮度低下をきたし買い叩かれる羽目になっていた。
その点新島は日持ちのする干物加工に適した脂分の少ない魚が大量に獲れたことや干物加工が盛んなところから製造技術にも長けけていた。島人が保持する独自の製法の習得も可能であり、東京という一大消費地へ鮮度を落とさず一早く送ることができる立地に頭の良い祖父は移住を決意した。
一獲千金も夢ではない。祖父と同じように故郷に錦を飾ることを夢に駿河近在の漁業者や加工業者の一部が出稼ぎ地として格好の場所であった新島や三宅島に目を向けたのであろう。
くさやに一脈通じる加工魚をしのばせる一種独特の臭いと味のある干し魚を、いつごろから「くさや」というようになったのか、それについてはは っきりしたことはわか っていないが、新島ではくさやと呼ぶ以前には『ショッチルポシ』とよんでいたそうだ。 ショ ッチルとは塩汁のとで あった。
300年前の話である。そのくさやは明治後半には大部分が東京へ送られ「くさやは新島」と評判となり島の産業の中核となっていった。
伊豆西海岸の磯を伝い下田を経由して漸く新島にたどり着いた祖父一家。当時満足に船をつける港が未整備と見え船上で着たものを頭にくくりつけ海中に降り立ち上陸したらしい。島への上陸からして大変な思いをしたのかもしれない。そして新島本村(にいじまほんむら)2番地に格好の家と加工場を見つけ腰を落ちつけた。
くさやをつける原液はどろっと濁った茶色の液。見た目ほど新島のそれは塩味は濃くはないのです。焼津でも天才肌の干物職人だった祖父は独特のうまみがにじみ出るような彼独自の原液を完成させていた。
浜から仕入れた山のようなアオムロアジをさばくのは主に祖母の仕事。裁いても裁いても一向に減らない魚の山。傍らにはお締めを濡らし乳を欲しがりむずかる我が父がいる。この後生まれた女の子二人を亡くしたのは育児に専念できないこんな事情があったからである。
とれたアオムロアジは浜から加工場に直ちに持ち込まれる。鮮度の落ちないうちに、すぐ加工しなければならないのだ。とにかく忙しい毎日が時間と勝負するように過ぎていく。
新島での新参者は人に誇れるくさやを作るために、鮮度の良い魚を求めることが第一である。魚は、アオ(青)ムロアジ、トビウオが主だったが新島の近海産のみを使うことが必須であった。
祖父が目利きした魚は祖母が鮮度の良いうちに開いて内蔵を除去する。アオムロアジ、ムロアジ、アジ系は腹開きでトビウオは背開きだったようだ。
祖母は血合いを綺麗に取り、傷まない様に丁寧に扱いながら真水で綺麗に洗っていきます。地下より汲み上げた伏流水で、血合い、汚れをきれいに落とし、5分程度流れる真水に漬け、身内の血を抜きます。くさや液が薄まらないように、充分水気を切りそして漬け込みます。
魚の大小、脂の乗り具合により魚をつけ込むときのくさや液に加える塩加減を決め、天然海水塩を入れてゆくのです。
つけ込み時間によっても、塩加減を調整します。この塩加減が「くさや」の旨さを決めます。1乃至2昼夜漬け込みます。
地下にある「くさや液溜まり」は一年中同じ温度で管理され、年間を通じ、酸素、温度、くさや菌の繁殖等維持管理が行われます。
くさや製造にとってくさや液はとても大切なのですが、くさや液から魚を取り出したあと地下より汲み上げた伏流水で洗い落します。血合い、汚れをきれいに落としていき1分程度流れる真水に漬け、身内の血を抜き竹製の簾に干し並べます。
魚の身をなでながら丁寧に並べる 天日乾燥。干す事により、塩の成分がアミノ酸に変わり甘み、旨みになります。くさや製造は素早やさが勝負です。脇でむずかる我が子にかまう時間はありません。そんな暮らしの16年余、あっという間に時は流れて行きました。
くさやの歴史はおよそ300年。「新島の食文化から生まれた偶然の産物」です。江戸時代、塩は幕府に献上する貴重品だった。もったいないので、干物作りに同じ塩水を何度も使っているうちに、魚の風味とともに発酵していったという。家々でそれぞれ秘伝の味をつくり守り続けてきたのです。
新島には昔、くさやを作る「五十集(いさば)」が50軒以上あったが、今は6軒。それでも築地市場に出るくさやの95%を新島産が占めるという。主流はアオムロアジ。脂が少なく乾燥しやすいトビウオも重宝される。マアジやサンマ、サメ、ウツボ、イワシ、キンメダイ……。いろいろできる。
築地市場に送ったくさやの干物で多少の貯えをなした祖父母一家。16年余新島で必死に働いてきた。厳しい環境の中で術もなく幼子を2人も亡くした。しかし狭い島内で成人を迎える長男の嫁を探すだけでも大変であった。祖父は故郷に帰ることを決断した。大正12年正月であった。
一家が故郷に帰った年代は大正12年1月であったことは焼津市の戸籍簿から今回明らかになりましたがその詳細はわかっていない。その件は今後の調査にゆだねることとしたが、新島でのまとまったお金で新築した工場と住宅で故郷の生活は再スタートした。
くさやは焼くときに一番匂いが強く、自宅などでは焼くことがはばかられるが一度噛みしめれば絶品で癖になる。特に酒の肴には向いていたのだろう。昭和初期に祖父母がなくなり年老いた父に代わり長兄が浅角商店という屋号を継いだ。その時不振であった一般水産加工から花形であった蒲鉾製造業に転身したので残って不要となっていたくさや原液はどこか行方不明になってしまった。
静岡県の伊豆半島は遥か南海上の島がマントルに乗り箱根付近に衝突し形成されたという。その証拠に「コーガ石」と地元で称される火山性の岩石は、
新島のほか、伊豆半島天城山、式根島、神津島でしか産出されないようでそれぞれの島嶼や半島の起源の同一性が知れる。
伊豆諸島は、封建時代の飛び地のように複数の地域が所有した歴史がある。一時は静岡県の行政区に属していた経緯と伊豆という冠名が伊豆半島と結びつき自分たちの島といった親しさが静岡県民にはある。明治のある時期から東京府に属するようになったが登山が趣味の私は準地元の山天城山にも数回登り温泉は熱海伊東湯ヶ島の湯につかる機会も多い。
ですから島嶼を含め伊豆地域には愛着が深いのです。それは祖父の時代でもそう変わらない県民感情であったことだろう。川端康成が描いた名作『伊豆の踊子』の主要コースを湯ヶ島から河津七滝までの天城峠越えも経験した。
その天城山と同じ成立起源をもつ伊豆半島、伊豆諸島のジオグラフにも関心が強いが、伊豆諸島には八丈島三宅島を除き訪れたことがない。
長兄が亡くなる直前まで訪問したがっていた新島であるが、病気が回復したら行こうと言っていた私との約束も長兄の死によって果たせなかった。
一世代前だから既に生存者のいない祖父母一家。そして故郷からの出稼ぎで苦労を分かちあった人々。島で亡くなった幼子の叔母たち、何よりも江戸の昔から何にも『ない』流人の島で伝統的な扶助を与えてくれた地元の関係者、夫々の供養をしたいと思う昨今だ。
父親一家が新島で精一杯生き抜いてきたからこそ離島後に生まれた今の私たちがある。色々な意味で詳しい消息を知るために現地新島を訪ねたいと思うが、見知るものが誰もいない今となっては、それも難しいだろうがようやく探し当てた住居地を知るに至った。
世話になったのであろう新島本村の名主梅田宮松さんの名前も知れた今現地調査の機は熟したが何分にも感染症コロナ禍の最中、終息の気配を見てからの新島行きとなろう。
図は現在の新島への航路図ですが当時新島へは陸路と海路があった。陸路を選べば焼津駅から隣駅静岡駅を経て三島駅へ東海道線で行き、三島駅(沼津駅となり)からは・・修善寺までの伊豆箱根駿豆線は当時まだ全線開通していない・・修禅寺行きか下田行きのバスで、バス路線が未整備であれば牛馬による荷駄に乗り換えたのだろう。
明治の末、陸路の伊豆半島縦断は、幼子を連れた両親が、身の回りの生活道具を背負って悪路を行かねばならないハンディを考えたなら、旧下田街道峠越への旅そのものが無理だろう。
祖父たち新島行きを断片としてしか知らなかった以前はどのようにして伊豆南端の下田までたどり着いたのかが私の長い間の疑問であった。天城峠越えへは自分の経験から無理だろうなと思っていた。陸行が無理なら海上を船で行ったのだろうか?
この件は私の上の三男の兄が父親からこのように聞いていたと助言があった。
父親が生まれた明治39年ごろ、焼津はカツオ漁が盛んであったが手漕ぎの小型船では漁獲量に限界があるため石油発動機付漁船(25屯・20馬力)が建造され当時としては数十人乗りのカツオ中型船が初めて就航した。
この船では八丈島付近まで鰹を追って行け、漁獲量は飛躍的に増加したと記録にある。新島へ一家が向かった明治41年から42年にかけて、このような内燃機関搭載の船が6隻に増えていたという。
祖父母一行はこのような船に渡りをつけ乳飲み子の我が父親をつれ、持てる家財を背中にくくりつけ西伊豆は土肥への船上に立ったったというのだ。
漁業の盛んな伊豆西海岸、土肥松崎下田をつなぐコースには漁船の多くや連絡船が行きかっていたので下田へはそれら一つに乗船したのだろう。
下田から新島行きは3時間前後の船旅であったが凪待ちのため、下田で長い逗留を余儀なくされたようだ。
一行3人は、伊豆西海岸を磯伝いに下田回りに流人の島のイメージのある新島の港へようやく降り立った。どんな気持であったのかは推し量るしかない。
当時の焼津には現在のような立派な港はなく南浜と呼ばれた海岸に獲れた魚を並べセリにかけていた。当然漁に出入りする船は波打ち際少し沖に錨で係留されていたのだ。
そんな風景の中、新しい暮らしを求め寒村の浜から駿河湾を介し遠望する西伊豆土肥へ海路出発しようとしている家族には高揚感とか高ぶる旅情のようなセンチメンタルな感情はなかっただろう。
失火の責任を取っての出奔と言っていい状況と小学4年生の娘を残していかざるを得ない心配、今後の新島での暮らし向きが成り立つのかを思えば大きな不安の別離だった。
駿河湾は波も低く安全な航海であったが、伊豆諸島への玄関口下田港は取り巻く外海の季節風が強く吹き凪待ちや、帆を膨らませる風待ちの船が多く停泊する江戸時代から繁栄した港町であった。祖父母一行も前項で触れたよう凪待ちを強いられた。
島に渡った祖父母一家は島で生まれた叔父叔母の6人を加え一時9人家族となったが島での1年目で生まれた2女を生まれて数日で亡くしている。おまけに3女は7か月の夭折だった。毎日のくさやの干物つくりに追われていたとはいえ、いかに一家の生活が大変であるばかりか育児、栄養、医療といった大きなストレスを抱えていたのが分かる。
厳しさを伝えるこんな話も聞いている。三男の兄の知り合いの祖父母一家がやはり当時の新島へ出稼ぎに行っていたという。私たちの祖父母と一緒に島へ渡ったのではないようだが、現地では助け合って生活をしていたという。
しかし島の生活が長くなるにつれ、その方の祖母は望郷の念が募り「焼津へ帰る」と泣き叫びながら波間を沖に向かって入っていったという。それを私の祖父母一家が海に入りつれ戻して助けたという。
それも一度や二度ではなかったという。「今孫として、あなた達一家にお礼を言いたい」とその方は、いったそうだ。
父親は小学校卒業後の役場暮らしを経て新島から焼津へと戻った。祖父母は2女3女を島で亡くし悲しい思いの多かった新島だったろう。帰島後には4男を6歳で亡くしている。焼津へと帰った父親一家の島での事情は関係者の多くが亡くなり何回も言うように今詳細を知るのは大変だろう。
しかしこんな明るい事実もあった。大正11年7月10日、東京府新島在住のわが祖父浅原角太郎が出品したくさやが全国水産物品評会で最高賞を受賞している。
頭が切れ、水産物加工の優れた職人だった祖父がくさや干物製造の頂点に立った瞬間であった。
新島で工夫したくさや原液は一家の離島とともに焼津にもたらされ、焼津でのくさや干物製造のエポックを築いたに違いない。
この表彰の価値を現在現業を通し焼津近在の水産と加工業の歴史に詳しい某氏に鑑定を依頼したところ現在の品評会で得られる栄誉と比較できない価値があるという鑑定をいただいた。このようなグレードの賞をもらえたこと自体大変な名誉であったというのだ。
新島離島後故郷焼津でくさや製造を再開した祖父角太郎は、最高賞という栄誉で証明されたくさや職人としての実力を発揮し、ブランドではない焼津産くさやを東京市場が高い評価で受け入れたことに貢献したのだ。その様な評価を恨む人もいたのだろうかこんな物騒な話を3男の兄が実家のことをよく知る知人から聞いたと知らせてくれた。
それは呪いの丑の刻参りの話であった。丑の刻参り、(うしのこくまいり)とは、丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪いの一種である。嫉妬心にさいなまされた人が、白衣に扮し、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶった姿で行うものである。連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見られると効力が失せると信じられた。
兄の知人が今は少し場所が移動しているが現存する市内の那須神社に参拝した時、奥に入りご神木に目をやると藁人形に角太郎と祖父の名前が書かれた紙が貼られた藁人形が五寸釘で打たれていたという。びっくりした知人は急いで藁人形を神木から外したという。
晩年焼津浜へ子供であった私の手を引きよく散歩に連れて行ってくれた優しい人格者であった祖父が人の恨みを買っていたとはとても信じられない。おそらく焼津でのくさや製造の名声を妬んだ者の仕業であったのだろう。
当時緑内障が現れた祖父は体調が悪かったらしい。その後この呪いの藁人形の話を聞いた身内の者は祖父が不調を訴えていたのは、人知れず5寸釘を打たれていたから相違ないと思ったそうだ。相手を死に至らしめる呪いの行為は知人の知るところとなり呪い満願となることは避けられたとは兄の話である。
今も実家に飾られる表彰状は、当時の新島島内では門外不出的な原液や製法を焼津に持ち帰えることを可能にした暗黙の了解を示すように飾られている。そのような祖父の信用力も私たち兄弟姉妹は孫として新たな敬意を感じるのである。
目を転じ現在の新島を見てみよう。くさやの干物の伝統は維持されているが、今の注目は観光だ。その地中海的風景が若者の人気を呼んでいる。
透明度の高い青い海と白い砂浜が続くビーチに降り立てば、ここが東京と思わず叫んでしまう。
リゾート感あふれる島内を歩くと、コーガ石と呼ばれる新島、天城山周辺とイタリアでしか採れない白い石でできたモヤイ像があちこちに佇む。
石山展望台でコバルトブルーの海を眺めたら、夕日スポットでやさしい気持ちに浸り、夜は満点の星に酔いしれる。
静かで美しい東京の島 、なぜか東京という名前がそぐわない新島。
東京から南へおよそ160km。
伊豆諸島のほぼ 中心に位置するこの島へは船に揺られ、降り立つがいい。
こころ動かす海 の 青さと白い 砂 浜 。ここへ来るたび に、大 切なものがふえていくとは東京都の広報。
今後我が家の明治大正昭和の暮らし向きの詳細がどの程度明らかにできるかは私の調査能力もありわからない。
亡くなった長兄が島で連絡を取り合っていたのが民宿経営をしていた梅田 要さん。
焼津からは蒲鉾類お送り、先方からはくさやの干物を送ってくれていたようだが兄が亡くなる少し前、その交流も無くなったようだ。その梅田さんも亡くなっているだろう。またその家から出た女性なのかは不明だが新島縁のメカタ何某さんの家族が書いた一枚の絵を三男の兄が所有している。しかしその方の連絡先、消息までは知らないようだ。
先に触れたように新島での一家の居住地も知れ役所の代行をし色いろな届を受理してくれた名主の梅田宮松さんの名も浮かんできた今それを手掛かりに現地の人脈も知れてこよう。先ずは祖父一家が感じていただろう島の空気を吸ってみることが彼らの暮らしぶり知る一歩となりそうだ。
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