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忠臣蔵を考察 その5

最終回
赤穂浪士が吉良邸へ討ち入りした事件から16年。そのなかのひとり寺坂吉右衛門は、大石内蔵助より真実を後世に伝え、浪士の遺族を援助するという大役を与えられ生き残っていた。
最後の遺族を捜し当て京都に向かったある日、彼は討ち入り前日に逃げた孫左衛門と再会。吉右衛門は、孫左衛門にもある密命が与えられていたことを初めて知る。
これは役所広司主演の忠臣蔵異聞である。勿論創作である。

池宮彰一郎の同名小説をテレビドラマ「北の国から」の杉田成道が映像化した時代劇。“忠臣蔵”として有名な赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件で生き残っていた男2人の物語を追う。事件前夜に逃亡した瀬尾孫左衛門に役所広司、大石内蔵助よりとある命を受けた寺坂吉右衛門役に佐藤浩市。男たちに課せられた宿命を生々しく映し出す。

このような創作話は忠臣蔵には枚挙にいとまがない。私も日本人、こんな話は誰よりも好きだ。当時の儒学者や幕府のブレーン学者の高邁な意見などどうでもよい。このせち辛い世を生きる人々の純粋さを人は愛するのだ。

歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が、現在の「忠臣蔵」ものの原型になっています。
これは非常に脚色が多く、事実とはまったく異なります。最近は、かなり史実に忠実なものが出ていますが、それでもいろいろと脚色されています。歴史学者は誤解を避け、「忠臣蔵」ではなく、「赤穂事件」と言います。

その「赤穂事件」とは、元禄14年(1701)3月14日に起こった、赤穂藩主の浅野内匠頭が高家筆頭の吉良上野介に斬りつけた刃傷事件と、その翌年12月14日に、赤穂の旧藩士たちが吉良上野介の屋敷に討ち入り、上野介の首を取った事件、その一連の事件を総称したものです。

その一から事件の概略を述べてきましたが、浅野が吉良に何か含むところがあったというのは、浅野自身が証言していますので確かです。しかし、どうして刃傷に及んだのかは、浅野自身も話してはいないのですが、勅使饗応役を務めるうちに、吉良から老中の前で面子を潰されるようなことを言われ、その屈辱を晴らさないと自分の武士としての名誉は傷つくと思って吉良を討とうとしたようです。
ですので、発作的ではなく、吉良をどうしても殺さなければ自分の面子が立たないと思い込んで斬りかけたというのが真実だろう。

しかし、即日切腹というのは、あまりに厳しすぎるのではないかとよく言われます。では、これは当時、当たり前のことだったのでしょうか?

仮に、刃傷事件を起こして相手が死ねば、理由の如何を問わず切腹です。それが喧嘩両成敗です。しかし、この場合、相手の吉良が生きていたので、もう少し審議があってもよかったのではないかと思います。

しかし、ちょうどその日は、将軍綱吉が勅使に答礼する日でした。その儀式の場を血で汚したということで、綱吉は怒りにかられて、即日切腹という拙速な沙汰を下してしまった。
もう少し事情を聴いていれば、また成り行きは違ったと思うのですが、そのまま浅野が切腹してしまったことによって、その後に赤穂の旧藩士による討ち入り事件が起こることになるわけです。

江戸城内で人に斬りかかれば切腹になるのは赤穂藩士たちもわかっていた。ただ問題なのは、吉良が生きているということでした。
刃傷事件を起こしたということは、武士の世界では「互いに喧嘩をしている」ということになるわけです。だから、喧嘩両成敗というのが当時の法律的な常識であって、喧嘩をして浅野が切腹になったのなら、相手の吉良も切腹するのが当然であろうと考えるわけです。

その喧嘩相手の吉良に切腹をさせないという処置に対して、赤穂の旧藩士たちは主君を思う自分たちの立場がないと思ったのです。
そういう状態を放置していることは、自分たちに武士としての恥が降りかかってくることを意味します。日本は恥の文化の国といいます。
だからこそ、吉良をなんとかしなければいけないというのが、赤穂の旧藩士たちの考え方なのです。
吉良は生きていました。しかも軽傷です。赤穂旧藩士の急進派としては、とにかく吉良が死んでいないのなら、吉良を殺すことによって喧嘩両成敗を実現することができるわけです。
赤穂藩家老の大石内蔵助は、最初に浅野家再興を考えます。この浅野家再興というのは、単に浅野家を内匠頭の弟、浅野大学が継いで復興することだけで果たせるものではなく、同時に吉良上野介に何らかの処分がなければ、意味がないと大石は言っています。処分が下れば、浅野家は本当の意味で再興が叶い、大学の面子も立つわけなのですが、それも最終的には実現しませんでした。
そのころ、江戸の町人たちもこの赤穂の武士は討ち入りするのではないか、と噂していたようです。主君が切腹になりながら、吉良上野介が生きているという状態は、赤穂の武士たちが許すはずがない、当然討ち入りに行くだろうと考えていました。
しかし、その討ち入りがなかなかないものですから、赤穂の武士たちは腰抜けであるという評判も立ってしまいます。他藩も、腰抜け侍を雇うわけにはいきませんから、再就職もうまくいきません。
だから彼らは、名誉を回復しなければいけない。その一番手っ取り早い手段が、吉良上野介の屋敷に討ち入って、吉良の首を取ることだったのです。
結局、浅野の切腹から討ち入りまでに1年9カ月もかかるのですが、堀部安兵衛たちは、そうした江戸の噂が我慢ならず、大石に一刻も早く吉良邸に討ち入ろうと突き上げています。ただ堀部がおもしろいのは、最初にすぐに討ち入ろうと思ったけれど、そのときには吉良の親戚である上杉家の家臣たちが屋敷を警護していたので、ここで討ち入れば、当然死ぬ、死んだら名誉は回復されるわけですが、「犬死にする必要はない」と言っています。
要するに、自分一人が死ぬことによって武士としての名誉は回復するかもしれないが、赤穂藩全体の名誉は回復できないので、ここで討ち入るわけにはいかないと考えたのです。
本当は自分はすぐにでも討ち入りたいのだけれども、多くの同志がいないと討ち入りが成功しないので、大石が自分に同意するのをずっと待っているという状況になったのです。
元禄15年(1702)7月、浅野大学が本家の広島藩浅野家にお預けになると決まり、これで最終的にお家再興の希望は潰えます。大石は最初から堀部に「お家再興の望みがまだある。それがダメだったら自分にも考えがあるから待ってくれ」というふうにおさえていましたが、その望みが潰えることでついに決断します。
ただ大石も、浅野家再興と吉良上野介への処分を幕府がやってくれるとはおそらく思っていなかったので、最終的には討ち入りをやらなければいけないだろうとは思っていたでしょう。
大石は家老の身分ということもあって、当初、なんとか浅野家自体の名誉を回復しなければいけないと考えていました。主君に対する忠義だけではなくて、お家に対する忠義があるので、いろいろな手段を使って名誉を回復することはできると考えていたようです。浅野家再興もその一つの手段だったのです。ただそれが潰えれば、これはもう吉良を討つしかないとなるわけです。
それで12月14日、「四十七士」と言われている47人の討ち入りとなります。討ち入り後、一人いなくなるので「四十六士」と言われることもあります。
だいたい赤穂藩には藩士が300人くらいいました。討ち入ったのはそのうちの47人です。六分の一1近くに減っています。赤穂藩が断絶して赤穂城を明け渡したとき、大石と行動を共にすると誓った者がまだ120人くらいいたことを考えると、ずいぶん減ったと言えるかもしれません。ただ、討ち入りすれば、成功したとしても必ず幕府の処罰があって死ぬことになると彼らは考えているわけで、そういう意味では47人という数は少ないというより、よくこれだけ残ったと言えると思います。
この文の大部分は山本博文(東京大学教授)氏の書いたものを参照しました


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