見出し画像

細川ガラシャのキリスト教入信

戦国のキリスト教布教期、イエズス会の宣教師ビレラ神父と日本人初の修道士イルマン・ロレンソは厳しい試練に耐えていた。京都から追い出されて堺に退いたが、そこにまで危険が感じられた。

奈良から、名の知れた武士、結城山城守と当代一と名声のある学者清原枝賢がビレラ神父を招き、その教えについて聴きたいと言ってきた。

それは教えを受けようとするよりもその教えの間違ったところを見つけて糾弾しようとするもので一種の宗論であった。

危険を感じた堺の信者は、ビレラが行くことを許さずイルマン・ロレンソを遣わした。

ロレンソはその使命に潜んでいる危険を感じ取っていたが、奈良へと赴いた。奈良では結城、清原と高山右近の父親高山飛騨守も彼らと一緒になってロレンソの説くところを打ち破り布教を断念させようとした。

ところがロレンソの話を聴き、特にすべてのものの創造主である唯一の神について聴いたとき、3人の心が変わり洗礼を受けたいと願い出た。

高山飛騨守はロレンソを自分の沢城に招き、そこで彼の家族も洗礼を受けた。飛騨守はダリオと呼ばれ、13歳であった長男はユスト(高山右近)と呼ばれた。

一方明智光秀の娘である珠は洗礼名をガラシャ(神の恵み)といいますが信仰に覚め洗礼に至るまで如何なる求道の道を辿ってきたのでしょうか。

義父明智光秀から山崎の合戦への加勢を頼まれた細川忠興は義父からの依頼を断り嫁である珠を離別し山里に幽閉した。

幽閉前の1580年、ガラシャは夫から紹介されてキリシタン大名高山右近に会い、右近からデウスの教えを聞いて影響を受けました。また右近とは盟友関係にあった夫忠興を通じて、右近のキリスト教の話しを聞き、キリシタンへの気持ちが高まっていったのです。

また、幽閉時代から侍女として侍っていたクリスチャンの清原マリアは前述宗論に負けキリスト教に入信した清原枝賢の娘であったのも何か強い縁を感じる。
近くに侍る清原マリアの語るキリスト教の教えも聞き、大いに感化されたガラシャはキリシタンに更なる憧れを持ったのです。

しかし幽閉から解かれて大阪細川屋敷に移り住みましたが、夫は幽閉時代から何人かの側妻を置き、子供まで生ませていました。

父光秀の謀反の悪評に悩むガラシャ。加えて父親に味方せず無念の死を招いた夫忠興にも不信を抱いていきます。

細川屋敷に出入りする植木職人が奥座敷で暮らす珠に出会い、その美しさに見とれたのを咎められ惨殺されたことがあった。
また信仰を捨てない珠の侍女の鼻や耳をそぎ落としたこともあった。

高潔な武将であるならばそのような異常な嫉妬心や残虐性があるはずがないと夫への不信は益々高まります。

主殺しの父親に対する世間の誤解、夫婦間の溝。その苦しさが頂点に達する時、珠はキリスト教の永遠不変の教えや、一夫一婦制の教えに強く惹かれていくのでした。
遂に教会の門を叩いて洗礼を所望するようになります。

ガラシャの洗礼(以下Webから)

ガラシャは、1587年3月、変装して屋敷を抜け出し、初めて教会を訪問しました。そこでガラシャは洗礼を希望しましたが、この時は見合わされました。

ガラシャは、夫から外出禁止の命を受けており、教会に自由に行けませんでした。しかし、侍女16人には洗礼を受けさせ、侍女を通してバテレンの話を学んでいました。また回りの多くの家来もキリシタンになっていました。

1587年6月19日に、豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと、イエズス会宣教師たちは長崎の平戸に集結する事となり、ガラシャは宣教師たちが九州に行く前に洗礼を受けたいと強く希望することになります。

大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、遂に自邸で、清原マリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、神の恵みの意)という洗礼名を受けました。この時、3歳の細川興秋も受洗を受けています。後に三男忠利も幼児洗礼を受けています。

忠興は禁教令発布直後にガラシャがキリシタンになったのを知ると激怒し、侍女の鼻や耳をそぎ、さらに細川ガラシャを脅迫して改宗を迫ったとも言われています。しかし夫から棄教を迫られる中にあっても、頑として信仰を貫き、やがて夫忠興も信仰を黙認するようになりました。

しかし夫との葛藤はつのっていき、ガラシャは離婚を決意し、これを宣教師に告白しています。かっての美男美女の似合いの夫婦にも、いまや夫婦間の亀裂が生じていました。しかし、キリスト教は離婚を禁じており、神の試練として乗り越えるよう諭され、思い止まりました。こうして、ガラシャの信仰は鍛えられ本物になっていきました。

フロイスの「日本史」の中に、「私がキリシタンになりましたのは、人に説得されての事でなく、ただ全能の天主の恩寵により、私自らがそれを見出だしてのことであります」と記され、また「如何なる迫害が、忠興や秀吉からきたとしても、既に覚悟を決め、その機に臨んで天主への愛のために、いくらかの苦難を受けることができることを喜んでいる次第です」とも記され、ガラシャの信仰と殉教も厭わない強い意志が伺えます。

ガラシャの自刃

やがて秀吉は病を得て没し、そのあと石田光成と徳川家康の戦いが始まっていき、忠興は家康に与して上杉征伐に出陣いたします。石田側は残されたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはこれを拒みます。

翌日、石田側の兵により屋敷が取り囲まれますが、夫の言葉に忠実に従おうと決意したガラシャは、石田光成方の人質になることを拒んで死を選び、自害を禁じるキリスト教の教えを守って家老の小笠原秀清に胸を突かせ、屋敷は燃え落ちていきました。ガラシャ37歳でした。

この壮絶なガラシャの自刃を見た石田三成は、以後無理な人質を控えるようになったと言われています。

ガラシャの死は、信仰を守り抜いた一種の殉教の証であった。夫婦間の愛情とは別に武門の妻として家名への忠誠を貫き夫や細川家の名誉を守ったその貞節は、遠くヨーロッパにも伝わりオーストリアに於いてガラシャを称えた芝居も上演され人々に深い感動を与えたのです。

ガラシャ婦人辞世「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」








いいなと思ったら応援しよう!