「教育」とは全てが「宗教」なのかもしれないというお話。

みなさんは最近話題のこのツイートを読んだだろうか?

今から書くお話は全てこのツイートとそのツリーを読んだ前提でのお話となるので、先にそちらを読むことを強く推奨する。


教育=宗教

私はこのツイートを読んで
「教育って全てが宗教なのかもしれない」
と思った。

この方や他の方の語る本の内容、表紙、その全てからある種の宗教性を感じたのだ。
「良い大人になって欲しい」という。

しかし、よく考えたらそれは別にこの本だけの特性ではなく、教育の為に作られたありとあらゆるもの、果ては親の愛すらもそうなのではないかと。

「可愛い子でいてほしい」
「優しい子でいてほしい」
「たくさん友達を作ってほしい」

何気なく普通のことのように思えるこれらも、見方を変えればエゴなのかもしれないと。

今から言う事は“全て度を超えた極論”と自分で分かった上で言うが、

「可愛い子でいてほしい」
は裏返せば
「可愛くないの否定」
「可愛くなろうとしない子の否定」だし、

「優しい子でいてほしい」
も場合によっては
「他者への無償の奉仕の強要」
「人格の支配」
となり得る。

実際にその気が無いにしても。

「たくさん友達を作ってほしい」
 なんてその最たる例で、
敢えてとても悪い言い方をすれば

「友達を作らない、作ろうとしない事は悪である」「1人よりみんなと一緒なことが絶対的に善い」

という思想の強要といえるかもしれな い。

引用元で言われていた家畜化もその一種なのかもと。

宗教は悪じゃない

でもじゃあそれが、そう思うことが100%悪なのか、親の愛はエゴでしかないかと云われたらそうとも思えない。

誰にだって他者に
「こうあるべき、こうあってほしい」 
という思想がある。 私にだってある。

「こうあるべき」という指針があるから、
人はある程度の自由と安全を享受できるとも思う。

じゃあ何が良くて何が駄目か。
ここからは“私の宗教”
(敢えてそういう言い方をする)
になるが

私はその基準は
「こうなって欲しいを押し付けた先」
 にあると思う。

「こうなって欲しい」 に対して反発されたときに、更に押し付けるのか、それとも汲み取ってあげられるかが大事なんじゃないかと。

「だれだって、話しかけられたらうれしいはずだよ。勇気を出して話しかけてみて」(ツイートの引用の更に引用)

文中にあったこの文言。 

私は最初怖いと思ったけど、 
よく考えたら別に
「勇気を出して話しかけること」
は悪でも何でもない。

 寧ろとっても素敵なこと。

問題はこの先でその相手が予想に反し 

「話しかけてほしくない!」 

と言ってきた場合に、どう対処するかなんだと思う。

「でも、だからといって『話しかけてほしくない!』という子は、いないはず」

この本の本当に(「本」と「本」当がかかっている面白いギャグ) 怖いところはここなのだ。

私は実際の本を読んでないからこの先がどうか分からないけど、

このままもしこの子が
「『話しかけてほしくない!』という子はいない」
という神話を信じて話しかけて
『話しかけてほしくない!』
と云われたとき
「別な宗教観として受け入れられるか」
それとも
「排除or更生しようと動くか」。

そこのその宗教の善性、悪性が現れるのでは無いか。

これは最近の
「環境活動家がスープを名画にかけた問題」
にも近い所があると私は思っている。

主人公(環境活動家)の
「芸術より健康で持続可能な食べ物を採ることの方が大事だよね!」 
という社会(友達) への声かけに

「いや俺は芸術良いと思うよ」と言われ、
そこに反発した結果があの事件だと思う。

元ポストの人が触れていた「チー牛」の蔑称の件も同じこと。
「可愛くあるべき」の宗教観の人が、自分とは違う宗教観の人間に対する攻撃をしているだけでしか無いのかもしれない。

この日本には「信教の自由」「内心の自由」という大切な概念がある。
どんな宗教観でも法律は守らなければいけないように、この自由もまた守らなければならない。

もし「可愛い子になってほしい」
と思う親が子供から
「可愛い子でいるのは嫌だ」
と言われたときに
「それでもオシャレな服を強要するか」
それとも、受け入れるのか。

「優しい子になってほしい」
と思う親が子供から
「優しい子になりたくない」
と言われたときに
「それでもボランティアや無償の奉仕を奨励するか」
それとも
「最低限の社会のルールや法律さえ護れば、無理に優しくなろうとしなくて良い」って言えるのか?

「たくさん友達をつくってほしい」
と思う親が子供から
「友達なんて欲しくない」
と言われたときに
「最低限のコミュニケーションのルールさえ守れば友達は絶対作らなきゃいけない訳じゃないよ」
と言えるか。

そして自分自身が「宗教の為に他者の自由や社会の規範を無視してはならない」という理解はとても大切なのだろうと思う。

実際その後の同じ方がツイートで、
この本では「そうではない存在に対しての肯定」があることへの気付きを得たツイートを見ることができる。

私は最初この本をパッと表紙と他の方のレビューだけ見てとても怖いと思ったが、コレ自体は大して怖くもない、ある種の教典の一つなのだと思えて来た。
そう考えれば大切なことを忘れさえしなければ素晴らしい読み物と思える。
Hな漫画も、「読む側が真似して痴漢やセクハラをしてはいけない」という事を覚えれば、
いくらでも楽しんでいいのだ。

最後に

人間のコミュニケーションは全て大なり小なり布教で構成されていると思う。

親の愛も、推しアニメの布教も、夢も、何もかも小さな宗教活動だと。

だからこそ、
自分とは違う宗派があること、
それは法を犯したり誰かの権利を侵害しない限り受け容れる必要があることを、忘れてはいけないのかもしれない。

というのが私の信じる宗教だ。
名付けてろくもん教である。




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