八日山

第2回「阿波しらさぎ文学賞」一次選考にて落選

馬乗りにされている徳島駅の南側にしかない出口を出ると、浮かれた木々や冗長としてのバス、暇をつぶすほどに裕福な人たちが構内に入っていくのを、すれ違いに視界の端からみやげ屋の紙袋を携えながら消えてゆくので、ここにくるまで車窓から望んだ風景のうち、駅から駅への間、田んぼないし畑の緑や茶色が、電車の減速に呼応し鮮やかになるコンクリートの灰色への変動パターンは、彼にとってあまりに単純で、しかし単純だと認識できる程度に記号操作の技術を訓練された場所から、その虚構さに辟易し、虚構であるがゆえに個人的趣味の色彩が滲んだ政治的なチキンレースにも疲れ、目をつむって耳栓をして寝たふりがいつか本当に寝るまでそれを続けたのにもかかわらず、おそらくそういうところから最もかけ離れているのであろう彼の故郷は、彼の反射的で不本意な演算のうち、最も単純で、どこにでもありふれた、何よりも避けたいと思っていたものの一つだった。暗転した視界は白く点灯する浮遊の道筋に上書きされ、降り続けていた雨の伸展方向に従って濃淡が分断されるが、押しつぶすような雲の圧迫は、彼のいる世界が薄い領域であることを改めて覚えさせ、道から蒸散した雨はそこから熱と、有機溶剤の香りを奪って跳ね上がり、飽和した底の方を行き交う人々の群れの中の一つの要素としての彼は、視認できる身体でどことない記憶を追跡すると、乾いた髪の毛が目にかかるのを避けながら、故郷を離れた日のことを思い出す。今はもうない駅前の喫茶店で、何にでも代替できる町の風景の中にねじ込められていることに、そう認識させることを可能にさせた普遍的な手段を、より精錬させることが唯一の価値ある手段であると疑わず、見送りに来た両親と交わす会話はそつなくこなされていたが何一つ思い出すことのできないあちらにある。ただあのとき飲んだコーヒーは、少し熱すぎて冷ますために最初に口をつけてからしばらく風景を眺めていたはずで、ぼんやりした窓ガラスは雨が吹きつけていたのに、よく外が見えていた。

ロータリーには彼の両親がこちらに向かって手を振っているので、彼はロックもかけていないのに上手く転がることのできない、キャスターの壊れかけたキャリーケースを引っ張り車に向かうと、彼の母親は安堵のうちの笑顔をし、父親もその程度が小さい相似をなしていたので、彼もそうしてみて(こういったことは彼にとって簡単なことだ)、荷物を載せて後部座席左側に乗り込んだ。父親の、元気だったか、は、昔信じた、もしくは信じるようその是非についての判断も要請された幻想の類を追いかけ幻想ゆえ手からすり抜け疲弊し十年経ってようやく帰郷した息子と、何も言わずただ待った父親の間で交わされる定型であり、それにより醸し出される精神の力学作用は、彼の湿度を少し回復させ、何とかね、と、別の足場と分岐を作成したので、母親は、ますます嬉しそうに、今日はあんたの好きなラーメンこれから食べに行くからね、その言葉の途中で振り返ったりまた助手席に座るものとして向く必要のない前方を注意したりした。

車は昔から様変わりした風景を後方へ追いやり、国道438号に沿って赤信号で止まり、青信号になり橋を渡ろうとすると、吉野川が空と、浮かぶ雲の暗がりとその他のすべてを映して散り散りになった光が、そのうえで気まぐれに彼の目に飛び込んできたので、そう思うまえにまぶたは閉じかけ、彼は行ったことの無い場所に帰ってきたんだと改めて、念押しされた観念はきつく縛り上げ、彼の故郷は壊れかけ、絞られる視界は捻じれながらその重なった層が徐々に解体され、これまで照らしていた光やこれから照らされるであろう光が縦方向に整理したところ、表層的な街の風景とその構成物は材質にまで還元された。

彼はもう車には乗っておらず、風景を限定した矩形の木枠を臨んでおり、身体もなく視線だけの、彼に対して風景がそうであるように彼もまたそうしていた。アスファルトで鳴る騒音もなく鳥と風にあおられ草木の触れ合うだけの景色は、そこにあるもので掴みえない無数の手を掴もうと、過剰に整頓され、その形式は形式に伴う内容の残滓を、ぶら下がった内臓脂肪みたいに携え、鳥が二羽、松の木に止まったと思えばすぐ飛んで行ってしまうので、中心の不満そうな岩に対して同心円状に引き延ばされたところ、端の方で砂をかき集め山を作っている男がおり、庭師と思しきその男は木材を掛け合わせた貧弱な道具で砂を固め、時々立ち上がり見方を変えながらその出来栄えを確認していた最中、別の男が別室から何人か引き連れてやってくるので、庭師は手を止めた。先頭でやってきた身分の高そうな服を身に着けた男は、庭師といくつかの言葉を交わし、その中で山の名前を聞いて、庭師は汗を拭って八日山と答えたところ、聞いた男は上機嫌に、周りの取り巻きは慌てている。塀の向こうにある背景は、還元されたところから再結合し、球になって振動しながら、それぞれの要素を構成してゆき、ある一つの図として成り立ったとき、無い耳に聞こえてくる砂浜に寄せる波は穏やかで、遠くの方には渦が巻き、彼の視点は橋のない波打ち際、遠くに橋のかかっていない淡路島が淡く見える海岸を臨んでいた。人らしいものは何もなく、カモメも少なく砂浜を覆う木々だけが潮風に晒されながらも海の方へ伸び、舞い上がる砂埃は空中で散り散りになりながら明滅する曇り空に差し込む太陽の怠慢は行き過ぎていて、月の明るくないうちから周りは暗く、何匹かのカニは勘違いして砂から頭を出すが、途端鳥たちが啄んでどこかへ飛んでしまうので、砂浜は暗く沈んでいた。彼の見たところ、身分の高そうな男の口からいくらかの言葉が互いの手を取り合いながら各々の外耳へ伝わり、鼓膜が震え、蝸牛に内蔵されたコルチ器にて変換され、それぞれの区分された経験と経験の推移が参照され、彼らのどよめきは不安から連続的に安心へ、そして風変わりな挑戦に取って代わられ、それは仮構された足場とはいえ発する人物の所作や波紋生成の接続構造により、強く固い強度を持った卵のようとなり、それは取り巻きや庭師の男たちにとって視界から、山そのものや庭に配置されている松の木、岩などを押しのけて、彼らの頭は蜘蛛が頭の頂点同士に糸を這わせ、蜘蛛は虚構の卵を食わんとし、それは当のあの、言葉を発した男の顔をしていた。誰も庭の山は見なかった、というのは視線こそ向けられるもののそれは見ていないことと同意であり、それは山の製作者である庭師も同じことであり、宙に浮かんだ卵ばかりを皆で見て喜んでいたところ、卵にひびが入り構造上応力が極大に振れたところを抽出、選択しながら亀裂は進展し、中から六本足の汚泥にまみれた鳥とカマキリの合成物のようなものの幼体が地面に落ちた。が、誰も気にすることなく蜘蛛の指示の下皆どこかへ行き、庭師だけが山をふたたび手入れし始めたが、その幼体は峻別のつかない自己と環境の間に身体を這わせながら、庭師の背中に鎌を打ち立て、腹の針を差し込むと庭師はとても気持ちよさそうに笑っていたけれど、またしゃがんで土の手入れを始めると、幼体は何かに耐えられなくなり、庭師の背中から転げ落ちた。彼はその様子をずっと見ていて、その目線はあちらこちらを指しながら、あれは何とか、これは何とか大げさに確認をしていたが、何一つこちらに認識を向けない風景に没入することさえ許諾され得ない状況は、ないはずの肌に並ぶ産毛を逆立たせ、ここには何もない、と貧相な孤独感が視線の周りを群がる。身体のない視線に誰一人気づくことなく、結局庭師までしばらくするといなくなったが、あの幼体だけは硬そうな外枠にまとう黒い汚泥で畳を汚しながらこちらに向かって高い声をあげ、鎌は空を切り続けており、彼を認識しているように見えたので彼もじっと見つめ返していたが、幼体は明確な輪郭を持たず、黒の点の運動が極端なところが集合し、それらしい形となっており、近づくと向こうの松の木が見えた。
すると視界は粒状に遮蔽された向こう側の数だけ庭園は分裂し、横方向に重なっていた影が配置され、それぞれに運動は停止していたが視線だけは移動することができ、それぞれの層においては庭師やその他の男たち、また幼体について異なる配置関係があり、そのおおよそでは幼体は存在さえしておらず、庭師が作業を続けていたり、誰も通りすがらなかったり、あらゆるパターンがあったので、精緻に配置され振動する背景は、庭の砂が風になびかれ光を散逸させながら彼の視界から色彩を奪い白く覆われてゆく最中、砂粒は一気に岩となり、彼の視線はそこに転がる目玉だけとなった。二つの目玉は好き勝手の方向を向くので、彼の視界も重なる所のない歪なものとなったが、左目は消えた距離感でカニとの距離を測るもやはり役立たずで、近くに来てこちらを見たと思ったら、カニはハサミを振りかざして左の視界が消え、右目も程なくして消えた。

黒の全面は夜明け前の海岸線のように緩やかな曲率で灰色へ移行し、それと同時に急激な傾斜は視認できる限界までの高さで転じている、上に凸となった黒味のある山のふもとから、持ち上げる頭蓋を無くした彼が見上げており、その大きさは概念としての巨大さを内包し、外在する彼をただそこにあるだけで押しつぶそうとしている。彼はそこから山の縁に沿って歩き出したが、山は軸対称となっているようで、歩きながら見上げてもその形は変わらず、方向は消え、足を止めた後にその山を彼は登り出したが、それでも山の形は変わらず、坂の途中登ってきた道筋を振り返ってみると、山は彼の目の前に、あの庭師が作っていたものが、膝丈ほどの大きさで滑らかな曲線で縁取られていたので、彼はその前にしゃがみ込んだ。端正に整えられたそれは連続的な曲線がある規則に則っており、変化は定常となって一粒の砂も揺るがず、新たに得た面の保持にかかる力は、外にあるものと内にあるもの区別をなくし、形はこの場におかれることで新しい意味を、その構成する要素にも構成される要素にも還元され得ない独立と有限性を得ており、彼は手が震え、膝を抱えた指の先が透明になり、山と彼と、それらを包む場のうち、どれでもない者の手つきの演出を、回復しつつある自意識が見えないものを、聞こえないものを、触れないものを、存在の土台を失われた器官でもって捉えようとしている。山を成す一粒のそれぞれは、非連続な反射によって彼を迎えいれようと輝きが増す。砂粒のそれぞれの界面は昔の一つの思い出を語り、その声で山は大きくも小さくもなるが、波紋同士のぶつかり合いにおいてそこにいたのは彼が失くした彼の頭蓋だったので、彼はそれを受け取って自分の首に接続すると、吸われた息のぬるさと眼球を支持する筋肉の痙攣は、統一された身体の循環的な感覚に収斂し、鼓動は彼の彼たるさまを呼び、生成と消滅を繰り返していた彼の身体は、明瞭な輪郭を獲得し、激しい喉の渇きと頭部の加速度により目を覚ました。
左のこめかみに拡散した痺れがあり、母親はまたこちらを振り向き少し笑っただけで前向いたので、彼は寝ていたんだと、彼自身を保とうとした。

車は昔から様変わりした風景を後方へ追いやり、国道438号に沿って赤信号で止まり、青信号になり橋を渡ろうとすると、吉野川が日の光を返して車の中にまで飛び込んでくる。彼は眩しそうに手で光を遮りながら川面を眺めていた。鋭く熱を帯びた彼の眼球は目をそらしても残像を残していた。
彼らはよく家族で通っていたラーメン屋に行った。入るとカウンターに数人いる程度で、テーブルについた彼らはいつかのあのときみたいに徳島ラーメンを注文して食べた。地元をでたときよりも上手く感じると彼が言うと、父親はそりゃそうだろと答えた。店内のポスターには駅前に立てられるモニュメントが描かれていた。灰色の無機質なそれは、何かしらの名前があるらしい。

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