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六枚道場#1感想

はじめに

オンライン文芸サークルの六枚道場というところで作品を一つ出しています。
やっぱり感想を頂けるというのは、それが好意的であれそうでないものであれ、嬉しいもので、個人的な営みであった書くという所作が、他者の読解を発生させたというのは、奇跡のような、隠れていた接続、関係があらわになるような感覚があり、このような場を設けていただいた管理人の方には感謝しきれないです。
せっかく書かせていただいたので、他の作品も読みたい、ここに読んだ人間がいるぞと示すことで新たな結節点をしめし、それがどう転ぶのかはわかりえないことではありますが、そうすることに私は賭け、感想を書いてみようと考えた次第です。
ただひとえに私の技量不足故読むのも書くのも遅いので、グループごとに感想を書き足しながら更新してゆこうとおもいます。

グループD

グループDの作品はこちらから読めます。

10.「ジャンケン橋」谷脇クリタさん

ある語り手が、大判橋という橋を中心に自分の育った街について、その歴史や生活、また自分の夫とのやりとりについて述べている話と読みました。
うまいなあと思ったのは語りの対象の運動で、最初は橋について現在と思しき若者の決闘の話、次に70年前戦地になっていたときの話、その次は語り手自身の小学生の時の話となり現在に帰ってくる、帰ってくると今度は語り手の歴史や戦争に対する思いとなり、最後は自身の夫の話(夫との関係においても、現在→過去→現在と動いている)となるところです。
どんなものでも、それが生きているとか人とかものとか概念とかは関係なく、すくなくとも私たちが生きている世界では時間による積み重ねがあり、つまり文脈を持っており、なにかしらの現れとなるには無数の選択が必要で、その選択の流線上接触した点においてはじめてものとものは出会うことができ、それはその場面だけを観察すると何でもないことのように思えますが、その場面にいたるまでの積算は非常に膨大で複雑であるがゆえに尊いものと思います。

おそらく真実はもっと複雑で、一方、目の前の現実は至極単純だ。
(本文3ページより)

この作品では、町が悲惨な戦争を経験し、その戦争による汚染を乗り越え、対立をも超越し、そのうえで語り手が語るべき街と夫に出会えており、語り手にとっての町があること、また夫がいることについてあたりまえじゃないかとは言わせない、物語の世界における(登場しないものも含め)彼らが選択し世界を作り上げた努力を感じることができるよう、6枚以内という制限の中丁寧に記述しており、とても良い読後感を味わえました。
また最後語り手が人間ではないものであることがかかれていますが、たしかに初読時はおおっと驚きを感じましたが、やはり再読してみると非常に滑らかに読むことができました。人間かそうでないかとか、その姿かたちがどのようであるかなんて、とても些末なことでありもっと大事なことがあるんだと、この作品を読んで私がそう感じたからだと思います。

11.「赤ちゃんテレビ」紙文さん

この作品は語り手である「わたし」と、それに対する「あなた」がおり、「わたし」が「あなた」に対しての思いや行為を語る場面と、「わたし」の仕事での状況を語る場面の2種類で構成されていると読みました。「わたし」は「あなた」に対して世話をし、仕事では後輩が辞め、遅くまで働き、最後は解雇されたように読める記載があります。また、「わたし」と「あなた」は、おおよそ人間ではない風な記載(ex.私のことを人間って「呼ぶ」ひとはいないから。/例えば、あなたはテレビだ。/殴れば泣く。そう設計された、単なる機械。)がありますが、断定はされておらず、その存在の様式はあいまいなままと読みました。
とっかかりとなるのは笑うことと泣くことかなあと思いました。「わたし」が笑うと「あなた」も笑い、「わたし」がそのことに気付き泣くと「あなた」も泣きます。そして「わたし」の名前は加賀見(かがみ)です。
この状況に対し「あなた」は題名の通り赤ちゃんテレビと名付けられており、ディスプレイに表示された結果しか知りえることはできず、それゆえ「わたし」は冒頭においてすこし込み入った考えにとらわれています。
複製と表象、どちらにも共通するものは先立つ本質があるだろうということ、そして感じることのできるものは虚構であるということの二つの見込みです。作中の「わたし」は何が本当で何をすればよいのか混乱している節(たとえば「あなた」が自分の笑顔を複製していると思うと泣いてしまったり、毛布でスピーカーを塞ごうとして、自分でそんな考えを持ってしまった自分に慄いたり)があります。
作中では本質と虚構の対立を超える一つの解法として、以下のような一文があると読みました。

あなたがわらった。わたしもわらっていた。その一瞬で、わたしはわたしがママなのだと知る。

ものごとには捉えることのできない普遍的、本質的な性質であったり、感じることのできる一回限りの写像的な性質だったり、いろいろな面があり、それらを支配していると思える因果律やらがあると思います。ただそれがそこにあることは紛れもない事実であるし、ゆえに多面性を一挙に乗り越えて理解されることもある、そのときわたしとかあなたとかホントとかウソとかは全てがアクターとして機能し、なにかがうまれるとき、理屈を超えた奇跡がおこるんじゃないかと思います。
その現れとして「あなた」は最後に笑うんじゃないか、と読みました。とても崇高な瞬間に出会えたと思います。

12.「雨垂れ」ケイシア・ナガサワさん

この作品は語り手がチャーリーという人で、同居している恋人のエリーゼと過ごしている、クリスマスの季節のある夜の一場面について描かれていると読みました。冒頭のエリーゼが妊娠を告白するシーンから始まり、以降チャーリーがエリーゼとどのような経緯で知り合ったのかについて語りがあり、最後に冒頭のシーンの続きとなる構造があると読みました。
この作品においては、最後のチャーリーとエリーゼの会話を代表的な個所かなあと思います。

「ねえ、チャーリー。わたし貴方との二ヶ月間は決して忘れないわ」
「ストラウスのところへ帰るつもりなのかい?」
「分かってるわ。戻らない方がいいのよ。でもね、チャーリー。わたしは臆病なの」

ここでエリーゼは何に対して臆病になっているのか。私は、でもねと言った後に、暴力をふるう夫のストラウスのもとへ戻らなきゃいけないという趣旨の一文が省略されているのかなあと読みました。すると臆病になっているのは、このまま二人で生活をすることに対してと読むことができます。
うまいなあと感じたのは、エリーゼが戻らなきゃいけないと感じている心の葛藤が、作中直接的には描かれていないことで、彼女が受けた仕打ちのむごさが引き立てられ、翻ってチャーリーの愛情がくっきりとした輪郭を得ているなあと思いました。
書かれていないことは言及のしようがないのですが、書かれないことにより書かれたことがより生き生きと元の持っている意味以上の豊かさを得ていると思い、技巧の高さに感服しました。
愛とは何なのか?という問いに対して普遍的な答えを見つけることは、非常に困難だと思います。またこのような問いに対し、それは愛という言葉の定義によるよねとか、人それぞれだよねという答え方も、答えているようで何も答えておらず、その問いに窮している人に対して冷たい印象を持ちます。答えきれない問いにどう答えるのか、一つの方法としてウィトゲンシュタインよろしく黙ることがありますが、本作はそういった意味で非常に温かみのある、かつクールな黙り方を(特に最後のシーンは)していると思いました。

13.「クレイジーソルトシティー」乙野二郎さん

この作品は法律がない街で法律家をしている人の視点から眺めた、罪を犯すと塩になる街の、ある日の出来事や思い出、思索を語っているものと読みました。物語の構造としては、序盤から終盤にいたるまでは法律の無い街で法律家をしている語り手の視点から語られ、強盗に入られ拳銃を突き付けられ負傷するまでを描いており、その後強盗が塩の像になってしまったところでこの物語の世界の特徴が明かされる流れとなっています。
この物語で題名にも書かれている通り、罪を犯すと塩になるという設定が一つ肝になるのかと考えました。社会的な生活を営む私たちは何をもって罪なのかという問いに常に答える必要があると思います。時代や地域によって罪に該当する行為や所作は異なりますが、その線引きのあいまいさや、あいまいさゆえの悲劇や葛藤、割り切れないことに対して白か黒かつけなくてはいけない苦悩は、共通してあると思います。本作中でも、罪に対する線引きのあいまいさは引き継がれています。そしてそれゆえ身近な、この街に居続けると主張していた人物が、不安から街を去ろうとします。

わからないってことは不安と同義なわけで、ぜったいこの街にいるんだって宣言していたスモーキー翁が街から出て行くって言い出したことがあった。あまりに人が塩のかたまりになるを見すぎたせいだ。

奇抜な設定のわりに淡々とした筆致であるのは、私たちの暮らしている世界と、上記の観点から非常に似ているからであり、設定に引きずられない、確かな技量があるといった印象を持ちました。
語り手が街を出ようか出まいか決めかねていたり、塩の像になる厄災に怯えながらも淡々と生活を営んでいる様子は、読んでいる側からしてみると奇妙に映るぐらいの冷静さを持っているのですが、それは翻って私たちが淡々と生活できている不思議さそのものであり、断罪をする/される恐ろしさと、その見えにくさについて改めて考えさせられました。

グループE

グループEの作品は以下から読めます。このグループは他のグループと異なり詩や俳句の作品となっています。

14. 「おはなし皿」草野理恵子さん

本作を読んだとき、特徴として個人的に感じたのは、①結論も結末もない点、②文章自体簡潔で簡易な言葉遣いであり、意味を意図的に破壊するような所作はない点、③改行が句読点の代替として機能している点の3つです。
①について、空行を境に内容を整理すると以下の通りになるかと思います。
A.冒頭2行。わたしの置かれている状況の説明があります。
B.生まれてからの話。ここで私は父母に容器に入れられ、赤い液体をかけられたうえで、怖い話を聞いた時の震えを我慢することで赤い液体がお金になるとあります。
C.まず赤い液体への疑義があります。父母が死去することで困窮しますが怖い話を聞くことでお金を得ています。ここで赤い液体を濁らせる行為の禁足事項がわたしによって認識されます(3ページ冒頭)
D.赤い液体の行く末に思いをはせています。メアリーセレスト号は忽然と乗組員が失踪した船ですね。
E.Aに戻る。
つまるところAで述べられた状況から何か変化があったわけではなく、始まり=終わりのようになっています。では始まりと終わりの間に何が語られているのかと注目すると、わたしが赤い液体に浸され話を聞く状況になった経緯が語られており、赤い液体への疑義や、赤い液体を濁らせるためにやってはいけないことはこれこれだと認識する場面があります。また赤い液体がどのような行く末であるのかも思いをはせている記載もあります。
つまり作中のわたしは、筋の無い=始まりも終わりのない混沌とした境目のない世界の内側で、言葉により自分の経緯を整理することで自らが生み出したものを想像し、捉えることのできる世界を生成し拡張していると思いました。
本作が私たちが認識出来うる整理が成された世界以前の、より根源的な感覚の表現のみを志向しているのならば、言葉の接続も文章の接続もより意味的に壊れているべきですが、しかし②として示した通りそうなっていないのは、わたしが言葉を用いることにより世界を成そうとしているからと読みました。
しかしその達成は完全ではなく、③で示した通り詩の技法としてよく用いられる改行が散文における句読点の機能を果たしていること、またそれ故本作は詩であることから、把握しきれない底知れなさも全体を通して感じました。
(長くなりましたが)まとめると、混沌とした境界のあいまいな世界においてわたしが言葉を使い、なぜ?やなに?のような疑問を持つことができ、それ故過去を整理しまだ見ぬ他者の様を想像し、見通しを良くしようとする過程にある様、さなぎのような状態、を描いているのかなあと読みました。
作者に読ませる意味を最後まで崩さず、かつ完全に把握させはしないモチーフの選択と構造の設計は非常に高い技巧だと思います。単純に憧れます。ほんとにすんごい。。。

15. 「困ったな」中能茜さん

本作の特徴は「困ったなと思う」の反復かなあと思いました。反復って難しくって、意味の強調に用いたり(ex.大事なコトだから2回言いました、とか)リズム感を出し疾走感を演出する機能があると思うのですが、どうしても単調になってしまう感覚があります。
たとえば私は会社勤めをしているのですが、実感として新人の頃の新鮮さはなくなり、今の方がやることなすことがつまんなく見えます。それは繰り返しによる慣れが一因といえます。Aという作業において、なぜのその作業が必要なのか、どの程度の完成度を目指せばよいのか、いつまでに仕上げればよいのか分からない状態だと、どの情報も「そういうことだったのか!」とすべて新鮮にみるものです(わかんなくて不安でもありますが)。ただ慣れちゃうと嫌でも勘所がつかめてくるので、これこれの理由でこの作業が必要だから、これぐらいの完成度でいついつまでに終わらせておけば大丈夫だなとなり、そこにあまり感動はないです(ハプニングがない分定時であがれるので良いのですが)。
本作では何かしらの告白(私は恥ずかしながら勝手に恋の告白と読みました(/ω\))をし、その告白を受けた語り手がイエスである答えを持っていながらもどんなタイミングでイエスというか見計らって、その行為に興じている様を書いていると読みました。
で、「困ったなと思う」が繰り返されることによって、その言葉通りの意味は次第に減衰し、困ってなんかない、困ったごっこを楽しんでいるだけの語り手の本心に漸近しているんじゃないかと読み、すごいなあと思いました。「困ったと思う」と次に続く分の意味の乖離度が、空行を経るごとに徐々に小さくなり、最後の段落ではぴたっと一致しているように感じました。
反復をこういう風に使うのは(私の読書量ゆえかもしれませんが…)初めて見ました。凄かったです。勉強になります!

16. 「朝」6◯5

自作なんでパスします……

17. 「にんげんきらいしぬほどきらい」池亀大輔さん

まず、本作は川柳なのかなあと思いました。俳句は季語があり文語的なものが多く、次に続く句の意識があり、自然の様を詠む(この"様を詠む"のがカギな気がすると個人的には思ってます)ものと思いますが、どちらかというと口語的で、一句の中に動きが2回(連れ去られる/捨てる)出現しそのうち一つは主体的であるのは珍しい(そうでもない?)なあと思いました。
まず「ネコズキ」は「猫好き」をカタカナに直したもの読みました。次の「仔を連れ去られ」と見比べると言葉の使い方のレベルに差がある、つまり片方は常用漢字をカタカナで書き、もう一方は子ではなく動物の子を意味する仔という難しい漢字を用いているギャップがあります。さらに「蝉捨てる」は主体性を帯びており、前述の受動的な様と差があります。
ちぐはぐな差があることは一つ読み解くうえで足掛かりにしたいので少し考えてみます。
語と語、フレーズとフレーズの接続において私たちは生活の無根拠さによって支持されたルールが流動的に定められていると思います。その接続がルールに沿ってないさまは、翻って私たちの生活と異なる様式を持っているもの、または様式が様式となる以前の混沌とした状況のどちらかを指し示しているのでは?と思いました。で、タイトルが「にんげんきらいしぬほどきらい」なので、子どもを連れ去られた親猫視点の不条理がはかれているのかなあと思った次第です(おそらく連れ去った人間はその自覚はないんでしょう、猫好きですし)。
ブンゲイファイトクラブの決勝ジャッジの樋口さんが引用したフェルナンド・ペソア「断章 76」の「完璧であるためには、存在するだけでよい。」といったような、美的感覚というかポリシーというか、共通する感覚が俳句にはあるような気がするのですが、本作はありのままでなんかいてられるか!といった現実の様相に対する強い反抗心を感じました。(適切かどうかわからないですが)ニーチェの手記なんかにひょこっと出てきてそうだなあとも思いました。
迫力のある作品だと思います。凄く良かったです。

(追記)よくよく考えてみると、上記の理由だけで川柳だとするのも短絡的に思えてきました。うーん……

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