無念
通勤途中に見える木の枝と、そこに留まり鳴いているスズメを見るとき、区切られた上で要求される立ち振る舞いから、にげることのできたぼくがいて、つまんないバカみたいな教科書がパンパンに詰まった机でつっ伏せながら片目でのぞいた窓の向こうにみた今のぼくに、電車の車窓は眺めるにはあまりに移り変わりが早く、今こうしてあのときと同じような逃避を、こっそりとしたためているのです。メモ帳に順番も向きもなく、書き連ねる文字列は単語単位であったり文章単位であったり、言葉にならなかった線分がちらほら、つくえに貼り付けたお菓子のおまけのシールは日に焼けちゃって、先生のはなしは暇つぶしにもならないや。カーテンが揺れて、教科書とノートが重なったところがぼやけてゆくのをずっと見ながら、向こうに何があるのかを探るために、つくえには彫刻刀でつけた傷が並んでいました。デスクの間仕切りに貼られた座席表と単位換算の標準、あと電車の時刻表はあまり見なくなり、今日も遅くなる、ごめんねは予測変換ですぐ打てるようになったので、タンブラーのコーヒーは午前中で無くなります。ときどきカレンダーと壁にかけた時計の間、セロハンテープのシミを見て、自分の部屋に貼った、インターネットで勝手にダウンロードした帰還したスペースシャトルの写真がまだ大切にそのままにしてあるのを、あの時のぼくは分かっていたし、これからのこともわかっているんです。形になれた文字たちが、互いに手を取り合ってつながりあって、順序よくお行儀よくしていた思い出たちが楽しそうに勝手のでんぐり返しを始め、たまにこけたり、遊びの中に彼らなりのお約束ごとができてゆく様子を、ベンチに座ってお弁当のウインナーを食べながら眺めていたときに、浦島太郎はどうして海の中で息ができるのかと聞いたら突然怒り出した先生を、ぼくは許すことができないんだと思います。下校途中にガードレール沿いに生えている雑草を蹴りながら、上手くいくと刃物で切ったようにちぎれて川に浮かんで流れていくのを、楽しくもないのにずっとやっていて、沈むことのできない葉の欠片に託した課題を、これからも先送りにしてゆくはてに、使いきれないものをどう抱えたらいいのか、分からなくなったときぼくはたぶん一人だろうし、昼寝をした妻に毛布をかけて、おじいちゃんから譲ってもらった詩集をながめて、今日の晩ごはんは何にしようか考えています。終電も逃してしまった残業明けの帰り道、酔っぱらいと同じ列でタクシーを待つ間、鞄のなかにあったメモ帳を灰色にする快感に、サッカーをしようといっても遊んでもらえなかった、一人でリフティングの練習をした近所の公園で、散ってゆく枯れた葉に泣いてしまったぼくがいて、おとうさんが迎えにきてくれたあと、靴は消耗品なのと聞いて、そうだよと教えてもらってほっとしました。学校の先生の話は退屈だったけど、塾の先生は不思議な人で、偏差値の高い高校に行ったって意味がないと言っていたけど、僕たちのテストの点数に一緒になって悲しんだり喜んだりしてくれて、それは立派なガラス張りの会社に勤めてようやく血肉になり、国語の先生に何か質問はないのか、みんなは一回は質問に来たぞと言われて、わからないことがわからなくて、そのことをそのまま質問したら、分厚い本を渡してくれて、それはぼくの本棚にまだあります。文章は仕組みがあって、必ずヒントが転がっていて、それを丁寧にすくい取ってあげれば、難しい文章も読むことができるらしくて、ぼくの手が置かれたキーボードは叩かれないので何も出力せず、間近に迫った納期もなかったことにして物語の続きを考えあぐねているのは、単純なまっすぐな線の上をあらかじめ定められた通りこなすやり取りは、単純であるために複雑で負荷のかかる作業となり、そこからは逃げ出せない大きくみえる物語に流されてしまっているからであって、夜帰ってからお母さんが用意してくれた夜食を食べて、今日はこんなことがあったとかあんなことがあったとか話をした時間は、元いた場所なのに目指す場所にすり替わっていました。給食の時間は隣り合った席を向かい合わせにして、でも男子と女子の間は必ず机が合わさることがなくて、あのとき感じた恥ずかしさや世界の広さは、絵本を読まなくなるのと同じように感じることができなくなって、でも本当は世界は広がっているはずなのに、でこぼこの地面を平らだと思い込んで、フラフラしながら足をひねり、それが大人になることだとか言って、今日もモニターに向かったらもう定時で、当然仕事は終わってないので、また妻に連絡します。それでもぼくはきっと充実しているし、満ち足りているし、寝不足は嗜みでやはりしあわせなのだと、冬が終わりそうな風の強い日に、学校の最後の授業を聞き流しながら見る風景に、クラスの卒業文集には書かなかったほんとうの未来が書いてあるのです。
そんな時代が来ることを、落としきれなかったカビ汚れや未発達な筋肉の震えを足場に来たるべき未来を展開し、あざだらけで正座した彼は保育所にも行かせてもらえず流す涙さえ失い、水を張った風呂場に顔を無理やりつけられ、そのまま笑いながら死にました。
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