霧、晴れ上がり
SFプロトタイピング企画「未来の医療を創造せよ」落選
砂埃が晴れる。稜線が輪郭を得る。波のように無数の人々の動きがあり、飢え、怒り、生存を欲し、死んだそばから生まれ、生を渇望している。しかし騒乱や喧騒はなく、身にまとった布切れが風にあおられるたびにバタバタと、舞い上がった砂にせき込む何人かの声のみがある。張りつめた皮膚の下に圧縮された期待と疑心があった。それぞれの血走った眼で見つめる先は小高い丘の一点であり、そこにはある少年が椅子に腰かけ頭にいくつもの配線が施されたヘルメットを被せられている。そばにはモニターを睨んでいる女がおり、いくつかのグラフが赤色から緑色になる。準備はいいかい?女は少年に問いかけた。早くやってくれ。少年は答えた。女は空中に表示されたボタンを、最後にいくらかのためらいと共に押した。少年から光が漏れる。彼は叫び、うなだれ、叫び声は彼を中心に同心円状に広まった。叫びの波が一通り人々を通り過ぎた後、地平線の向こうから無分別なエンジン音と発砲音が聞こえる。人々は逃げ出した。女も少年を担いで逃げ出した。
緑の曲線がいくつか交差した、切り立った崖のそばに立つ灰色をした直方体の重なりのなかに吸い込まれるような道が続いている。傷がそのままの旧式の浮遊車が鳥も飛ばなくなった空と地面の間をなぞるように、その一本道を走ってゆく。まったく揺れのない車内で寝起きの僕は、地続きにグラデーションに続いている現実の車内と消えそうな夢の間を反復する。彼らの悲痛の残響だけが心に残る。罪悪感、無力感、痛み、悲哀、叫び……。文脈を失った感情だけが傷跡のように残り、妙な使命感を帯びた目をこすり、フロントウィンドウに映し出された家までの帰路の映像が現実にゆっくりと引き戻した。マニュアルモードに変換いたしましょうか?運転制御用のAIが問いかけてきた。たまにはやらないとな。僕がそう答えると、座席は引き起こされ、ハンドルが生成される。それを両手で軽く握ると、多少の負荷とともに車の制御を引き渡された。今この瞬間、自分の手綱を自分の手で握っている感覚。思い立ったならば大きくハンドルを切りいつだって急浮上して地面に突っ込むことができる。思い立つことなど決してない「もしも」を常に用意しておくこと。それがあらゆる保護に囲われた現代に対するちょっとした抵抗でもあった。
家に着くと扉の向こうはダイニングテーブルで本を読む妻と、ガラス越しにうつる少し荒れた海がある。いつも通りの時間、いつも通りの風景。僕たちは少しして、夕食とした。沈まない太陽のせいで空と海は20時なのに夕方のような色をしている。終わることのない終わりかけが延々と続く季節に、少しだけ僕たちは鬱屈していた。夕食は一ヶ月ぶりに本当の魚が手に入ったので、手間はかかるがオリーブオイルとハーブ、白ワインでマリネしたものを、軽く小麦粉をまぶしてバターでソテーした。やっぱり本物は違うね。そんな感じの話をしていた。
後片付けを済ませ、妻は引き続きダイニングテーブルで読みかけの本の続きを、僕は壁に埋め込まれたディスプレイでニュースを見ていた。白夜継続の予報と、睡眠解消に役立つストレッチの特集、大気汚染の予報があった。幼い頃には株価の乱高下や紛争地域からのレポート、政治的課題の議論に芸能人のスキャンダルなどなど、色とりどりの下世話と挑発で溢れていた。今はモノトーンでフラットな情報のみが、淡々と流れてくる。立ち向かうべき課題を個々人で選んでどうこうできる時代じゃないことはよくわかっている。ここ百年はそんな感じだ。ニュースは統計結果から人口推移の予測と今後開発すべきトピックスについて話題が移っていた。どんどん減っていくんだね。妻が読み終えた本を閉じ背中越しに声をかけた。ああそうだ、僕らが生まれたころは100億人を超えて人口問題があったらしいからね、まったく別の世界の話みたいだ。ニュースは抑揚もなく人口予想のアルゴリズムの前提とその計算条件を図示し、結果保証されうる確率において世界の人口は300万人から400万人の間で収束した状態が継続するとしている。だからと言ってどうということはない。あきらめと慢心が混じったような感情の土台が僕らの平静さを保っていた。何かを解決するために僕らは力むことなく、狡猾になりすぎている。明日は換気を十分行うよう伝えるニュースを最後に、僕らは部屋を閉め切って夜にした。
飛び上がるように起きた。息が切れている、汗をかいている。部屋の風景が徐々に現実を取り戻してゆく。大きく息を一つはいて落ち着くと、妻も眠れていないようだった。どうしたの?声をかけると彼女の視線は部屋中を周回しながら、決してこっちを見ずに言った。夢。何を見たのか覚えてないけど、苦しくて悲しみでいっぱいになって、なんだか寝るのが嫌になっちゃって……。僕もまったく同じような感じだよ。帰ってくる途中でも同じような夢を見たんだ。そう……。僕の驚きよりも彼女は感情の残滓に引きずられたようで、僕は服を着替えまたベッドに戻った。悪夢で目覚めるなんて何十年ぶりだろうか。意識できないレベルで、環境制御のデバイスに異常があったのかもしれない。脈絡のない問答がその後いくつか続き、眠りについた。
次の日の、昨日の夜と同じような朝、窓に向かいながら喉を潤すため水を一口含んで、昨日の悪夢について考えていた。大方環境制御デバイスの故障とにらんでいたが、拭いきれないシミのようにそれを否定する感覚が残っていた。妻が起きてきて、少し昨日の夢の話をした。朝食を準備し、空気を入れ替えるため窓を開けた。風が大きく吹き込んできたとき、ディスプレイが自動で起動し、臨時速報と題された画面が表示された。
70年ぶりの殺人事件が発生した。犯人は悪夢から逃げるためにやったと供述しているらしい。口に含まれているトーストは何の味もしなかった。
その後立て続けに凶悪事件が発生した。警察には長らくそういった犯罪の対応する部署や施設が廃止されていたらしく、留置所が新たに建設されたニュースも流れてきた。しかし凶悪犯罪そのものよりも僕たちの不安を煽ったのは、彼らが犯罪に手を染めるにあたって同じような悪夢を見たことだ。ニュースでは同様の精神不安状態に陥ったならば、すぐさま通知が発信されるらしく、その際は各家庭の医療ポッドで治療するよう対処すれば問題ないらしい。ただ犯罪件数は減るどころか増え続け、何の慰めにもならなかった。
妻は突然視界に写った通知により自分の精神状態が不安定であることと、自分の気付かないうちに眼球にARデバイスがあることに気づいた。備えついていた(これも初めて知った)医療ポッドに入り、色んな色の光を浴びていた。痛みや圧迫感のあるものではないらしいが、結局その治療らしきものによる効果は大してなく、悪夢は毎日のように続いた。
ある朝目が覚めると、妻は医療ポッドに入ったまま寝ていた。朝食のときに聞くと、ARデバイスからの提案だったらしく、夢に対する印象が大きく変わったらしい。試しにと僕もその日の夜はポッドに入って寝てみようとなった。通知こそないものの悪夢はつづいており、夢であるが故に残ってしまう何物にも基づかない抽象的な不快感だけは強まっていた。ポッドに寝転がるとキャノピーに部屋の映像が映し出されすぎる。真っ暗な部屋に浮かぶような格好となる。目を閉じて思考の行く先を曖昧にして、僕は眠りについた。
砂埃が舞うなかを進むと、露店が立ち並んでいた。人々は服と呼ぶには物足りない布切れのつぎはぎを全身に纏い、品々を物色したり、その場限りの値切りの口論をしたり賑わっていた。人間の密度がここまで高い状況に耳鳴りがする。どこを向いても人がいる。彼らの交わす言葉は理解できなかったが、そのやり取りと身振りや視線の配り方から既視感と納得がこみ上げてくるのを感じた。
突然、露店街を貫く道の向こうから男が大きな声を上げる。それに伴って人々は品物や店を捨てその場から逃げ出した。走り去る人々は絶えず砂ぼこりの向こう側からやってきて、僕も訳が分からずある店の影に隠れてやり過ごそうとした。
目の前の大通りを走り去ってゆく人々が銃声とともにバタバタと倒れていった。瀕死の人たちに追い打ちをかけるように地面に向かって念入りに掃射される。土埃の代わりに鉄の匂いが強い赤い霧のようなものが立ち込める。ある兵士がこちらを見つけた。人間ではなかった。単眼の頭がこちらを向いてほんの少し間を置いた後、こちらに向けて発砲した。自分の硬度を貫く弾丸越しに感じる。つぶれゆく頭蓋骨と飛び散る脳にまで自分の気配がこびりついている。身体の端から急速に自分が消えてゆくのを感じながらそのまま暗いところへ落ちていった。
医療ポッドはまだ暗い部屋の中を裏側から投影していた。よく眠れた日の目覚めのような、ここ数週間感じなかった感覚をもって目を覚ました。4時半だった。僕がポッドから動くとカーテンが開き、コーヒーメーカーが準備を始めた。そのまま窓に面している安楽椅子に腰を掛け、海を眺めながらさっきまでの夢を思い出していた。生活が消える、関係が消える、資産が消える、肉体が消える、ありとあらゆるものは奪いつくされ、踏みつくされ、唾棄され、消え失せる。今まで感じたことの無い強い感情が芽生え始めていることを感じた。
妻と朝食をとりながらこのことを話した。最初はいつも通り穏やかだったが、次第に僕の口調は厳しく激しいものになっていった。妻も同じように熱くなっていた。僕らはどこかでこしらえられ外在化されたリズムに無理やり踊らされている感じもしたが、次第に話の内容を置き去りにして、リズムと一緒になり議論自体に夢中になった。夢を見ることに伴う不快感は、今ここで何か起こさなくてはいけない使命感や義憤、そういったものに取って代わった。
僕らは積極的に医療ポッドで睡眠をとるようになった。一つしかないので交代で使用していたが、やむを得ずもう一台を調達した。数十年ぶりに現金を使った。僕らは何度も夢を見るごとに、その夢が見るたびに代わるものの10種類程度のパターンが繰り返されていると気付いた。それらを書き出し、特徴を整理しながら関連付け、再構成した。夢中になった。突き動かされるような衝動を伴っていた。調べていくうちに僕らのような作業をしている人たちはほかにもいることに気が付いた。端末から彼らと情報交換し、さらに夢の構成を分析した。
やがて夢の分析とその再構成、つまり夢の指し示す先について解釈がまとまった。僕たちはしばらく機能停止状態にあった政府と議会を再構築し、僕たちが見た夢について、取り得るべき行動と人選を済ませた。僕らは平和になったはずの世界の、存在しないはずの外側について、自分たちの仮説が正しいのか確認する必要があった。
――2589年、とある議事堂における基調講演
本日は貧困層移民受入制度導入に際しまして、3年前のある犯罪行為について告白いたします。その内容はここにお集まりいただいた皆様には大半が周知の事実かと存じますが、今ここで私が皆様にお話しすること自体が、今後ともに歩みを進める同じ人間としてあるためにも意義のあることだということ、そしてそれを皆様と共有していると確信しております。
現在、私たちの寿命が数百年あり、長らく凶悪犯罪や戦争、飢餓や貧困に苦しまず、政府や議会も企業もなく、労働や納税のことを考えなくて済んだ理由は、ほぼ無限の金銭的価値を生む自動取引アルゴリズムと、生体内で稼働するミストデバイスのおかげです。
まず我々の実存の階層を集団と個の2分類としたとき、死も集団と個体で別様に考えることができます。集団的な死の要因として経済の不安定性、個人的な死の要因として病が挙げられます。
世界人口は2050年の102億人から徐々に減衰する傾向にあると予想されていましたが人口減のペースは鈍化、70億人を維持する期間が長く継続しました。その結果、温暖化に伴う異常気象や伝染病の多発、それに伴う経済危機や食糧難、ひいては紛争や限定的な核兵器の使用まで事態はエスカレートしました。そこで先進国の、その中でも特に経済的有意な状況にいたものたちは、つまり我々のそれほど遠くない祖先ですが、彼らは比較的温暖化による影響を受けずに済んだ北極圏と南極圏に移住、境界を兵士ドローンで守り他から一切の干渉を受けないようにし、その中だけで生活するようになりました。すでに当時の生活習慣や流行した伝染病等々により人間の生殖力は大幅に低下、子どもはめったに生まれなかったので、富裕層領域内の人口は極端なペースで減少、しかし経済的なサイクルを維持するための知的、物質的リソースは豊富にあったので、自分たちの富を交互に交換しその行為によりさらに富を築き上げる自動取引アルゴリズムの運用により、無限の資産を手にしました。この時点でもはやサービスの売買と納税の間に明確な境界はなく、貨幣の価値担保はまさにその貨幣でやり取りされる価値の交換にこそあるようになりました。
しかし社会が安定し犯罪や戦争が無くても個人は病気をしたり怪我をしたり、生命を脅かされる事態を避けることはできませんでした。そこで、ある企業がマイクロスケールの医療デバイスを開発、病状の確認や各器官のモニタリングだけではなく、怪我や病気などでダメージを被った細胞の代理構成体として機能し、またデバイス間の通信により他者の感情を直接それと感じることなく共有できるようになりました。そのおかげで寿命はますます延び、かつ穏やかに、誰からも自らの存在を、物理的なレベルにおいても趣向や社会的文脈、抽象的なレベルにおいても脅かされることはなくなりました。余談ですがミストデバイスという呼称の所以はその散布方法にあります。散布直後のデバイスはまるで霧のようであり、各個人に行きわたるときには目視不可のレベルにまで希釈されています。定期的に換気を促す通知があったと思いますが、あれはデバイスの経年劣化対策としてデバイスそのものを再接種する必要があったからです。
しかしこの繁栄は、貧困層への略奪と言っても差し支えないような傍若無人な振る舞いがあってこそ成立したものであり、それこそが私を犯罪行為へと促した直接の原因でもあります。自動取引アルゴリズムにしろ、ミストデバイスにしろ、その製造過程において大量に必要とされる貴金属は、すべて貧困層の領域において採取されます。彼らは19世紀の産業革命時とさほど変わらない危険な環境に置かれ、決して怠けることも許されず、常にドローンによって監視され、掘削に必要ないとみなされたもの、年老いたり病気をしたり怪我をしたりしたものは、彼ら自身の手により殺害され、埋められました。彼らを殺す手間すら、我々は惜しんだのです。
また彼らにはまともな医療サービスを受けることや最低限必要な食事も満足に得ていません。我々が当然のように享受しているサービスを、彼らが受けることはサービス料未払による犯罪であり、積極的な排除、つまり殺人行為がなされていました。
貧困層においては生命の危機が生殖への希求を増大させ、結局彼らの人口はおよそ40億人程度で停滞しています。まさに彼らの命への渇望そのものを資源にし、彼らの流した血の海の上に我々の生活が浮かんでいたのです。
私はある些細なきっかけで、規律の順守よりも好奇心が優先された結果、領域を超え、旅をし、その実情を目の当たりにしました。身近なところから仲間を集め、ゲリラ的に食料配布や医療を施したりしましたが、私たちの動きは統治局監視下に置かれており、武装し身を守ろうともしましたが、常に人死が出るような状態でした。
そこでミストデバイスの制御コマンドをハッキングすることにしました。我々は我々の感情でさえ制御、管理されうるものとして手放しましたが、掬いきれない無限性こそ実在の条件であるはずですし、私は公平性の希求は呼び起こし得るべきものだと信じていました。まずミストデバイスの散布日にデバイスを捕集し、人体内を模擬した培養装置でデバイスを複製しました。それを彼らに摂取させ、彼らの信仰の対象となっていたある少年を一種の増幅装置として用いることで、彼らの感情を富裕層領域に向けて発信しました。その少年は、いまわたしの右隣にいる彼です。あの時はありがとう。
ミストデバイスのハッキングによる殺人や凶悪犯罪の発生は心痛む事件です。私は許されてよい人間ではありませんし、我々は私のような人間を許してもいけません。しかしその後事態の異変に気付き夢として顕現した彼らのメッセージの解析を行ってくれた方々の協力もあって、今日の日を迎えることができました。最初に夢の解析を行ってくれたのは私の左隣にいるご夫婦です。本当にありがとうございました。
今日は我々が人間であるために一歩を踏み出した日であり、記念すべき日であると確信しています。私は収監され、二度とこの社会と関係することはないでしょうし、そうすべきです。しかし、まさに今日この瞬間から、まさに私たちが生み出した発明をもって真の平穏を得るための挑戦が始まるのです。私の後方から噴き出している霧は、貧困層エリアへ向けたミストデバイスの散布です。このまま気流に乗り、彼ら全員のもとに行き渡るでしょう。このことによる新たな問題も噴出するかもしれない。それでも私たちには問題に立ち向かう理性と勇気を持ち合わせており、今日という日を迎えられたのはその証左です。
全ての人間はその存在を不可侵ものとして尊重され得るべきだ。ありがとう。
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