六枚道場#3感想
今回も懲りずに書いていきます。
グループA
グループAはここから読めます。
1. 「花の歌」ケイシア・ナカザワさん
いつも音楽からインスパイアされて小説をかかれているとのこと、花の歌と検索して真っ先に出てきたランゲの曲を聴きながら読ませていただきました。
このお話に魅力的だと感じた点は2つあって、一つはラストの書かれなさ、もう一つは線形的な帰結からの脱却が、口語の文章の展開によってなされていることです。
ラストシーンは男性が転げたときに頭につけた花を取ろうとするシーンで終わります。その前に男性の仕草を可笑しく思ったり、結婚させようとする父親に反抗して自分の道を行きたいと願う心情の描写がえがかれていることから、この男性との関係について今後の展開を、おそらく恋愛関係になってゆくんだろうなあと匂わせるうまい作り方をしていると感じました。
もう一つは(ラストシーンの思わせぶりな終わり方にも通づる話ですが)この物語全体の構成についての魅力です。主人公はピアノの練習を頑張りますがデビューにいたるまでは結果が振るわず、また海外でのトレーニングにも励みますがコーチにも恵まれません。また帰国後も父親により就職と結婚を無理強いされます。これらの状況に対し主人公が取った手段は「小さな川の岸辺に座ること」です。ものごとを解決する際に取るべき態度としては二つのものがあると思います。
一つは過去の経験と現在の状況に鑑み、未来を予測し対策をうつことです。これは再現性と因果律を根拠に2度3度(何回くりかえしたならば再現性があるという議論が難しいのは理解していますが、ここでは分かりやすくしてます)繰り返しあることは次も同じようなことが起こるものとしてまだ存在していない未来をすでにあるものと仮置きして対応を現実に具体化させる特徴があります。解析的な演算が可能なので、解が収束する場合がありますが、ただそれが受け入れがたいもの(作中では海外のコーチの愛人になったり、父親の言う通りに就職して結婚したりすること)だったり、また解が発散して手も足も出ない状況になったりすることもあります。
もう一つの方法は、方法と呼ぶことが適当ではないと思いますが、新しい形を導入することだと思います。前者の方法として述べた線形的な問題解決には論理構造が出来ごとと出来ごとを接続するために導入されていて、その論理構造は私たちの身体の構造や無根拠な生活所作に基づいています。といってもそれらは論理構造という命題が成り立つ前提であるが故に捉えることは出来ません。しかし認識できないところで起こったこととできるところで起こったことは断絶しているのではなく、その繋がりがたまたま見えないだけでシームレスに接続されているとするならば、私たちが普段と異なる形を導入するだけで、新しい論理や因果が見えるようになることは可能性として否定はできないです。形というのは、言葉の使い方、帰り道、みるもの、聞くもの、食べるものなどなんでも大丈夫で、大事なのは変えてみてはじめて理解できたもの、発現しうるものと思います。
作中ではそれが「小さな川の岸辺に座ること」にあたるのかなと思いました。これが主人公にとって生活習慣にすでに組み込まれていたものかどうかは明記されていませんが、少なくともピアニストとしてデビューしたり、少し大きく意味を捉えて自立することに何か影響するとは思えません。しかし作中では「小さな川の岸辺に座ること」が八方塞がりの主人公に光明を与えているようなラストになっています。
初読時、海外のコーチや父親の態度にデフォルメされた抑圧的態度があるように読んでしまったのですが、それは主人公やこの物語世界にとってはそうではなく、嫌な言い方ですが常識的な処世術なのだとしたら、「小さな川の岸辺に座ること」の大きさがより鮮明になり、ラストシーンの今後の展開の開かれ方も鮮やかに読めると思いました。
2. 「雪に溶ける」ヤマダヒフミさん
本作では世界の終わりに際してある主人公の回想と、それだけに留まらずまさに世界が終わってゆくさまを描いていると読みました。本作を読むなかで私が考える足場にしたのは、世界が終わることそのものと主人公の回想中に登場した女性の態度の2点です。
まず世界が終わることは本作中でどのように語られているのかというと、「あらゆるものが対立をやめて一つになろうとしていた。」とあるので、主客の区分の消失と言い換えることができると思います。主客の区分が成り立つためには、あれとこれ、こちらとあちら、わたしとあなたがあること、名前をつけることができること、差異があることを認めること、そのために必要な同じさを認めることが必要になると思います。例えば何かしらを認識している私がいて私に見られている何かがあった時、私を同一のものとして扱うことで私がみているとなります。私の中の目や脳を私と別のものとして扱ったならば、私がみているのではなく各種器官の電気信号の伝達以上の意味はなくなり、そこに「見る」という現れは消失しています。つまり主客を区分するためには認識の粒度のある程度の粗さが必要で、それゆえ本当は異なるものだけどそれらを同じ一つのものとすることで、区分が可能になると思います。
主人公は世界が終わるときに自分が世界と融合しているような感覚になっていることが書かれています。そしてその過程で喜びを感じたり、パートナーの女性が自殺した理由が理解できた感覚になることで悲しくなったりしています。これは世界が終わることで認識の粒度が極大と極小に発散してゆく様を示している(だから分かり得ないことも分かる)と思いました。
そして主人公は半ばそうなることを望んでいるかのような、スッキリする、出来損ないをリセットできる等の発言をしています。これ対しパートナーの女性の態度は明確な反発や嫌悪を示しています。彼女は主人公に対して薄情だとか、あなたには分からない等言っており、最終的には自殺してしまいます。
作中ではパートナーの女性の自殺の原因については触れられておらず、主人公が世界が終わる寸前にその理由に気づき後悔の念に駆られていますが、明確な理由は述べられていません。また彼女が主人公の態度の何に対して気に食わなかったのかについても明言は避けられています。この部分の重要なところはおそらく、書いてあることそのまま、つまり女性についての心理は主人公の語りを読んでいる読み手にとって把握しきれないものであるということかと思います(主人公は世界が終わる過程で理解していますが、何をどう理解したのかは書くことができないので書かれていないです)。
この作品は共存することの困難さを描いていると思います。私たちはそれぞれに異なっているので、世界に対する認識の粒度に差があります。そして投影された心象同士の重なり合いにおいては常に齟齬が発生し、齟齬があるゆえの生活のリズムが生まれると思います。今この文字を読んでいる人の目に映った瞬間、文章として解読された瞬間の理解と今この文章を書いている私の気持ちは重なっている部分もズレている部分もあります。だからこそ物事は思った通りにいかないし、ずれることを許容する以外の手立てがありません。つまり理解することを大事なこととして扱うのをやめることです。なんだか寂しい言い方ですが、ここに寂しさはないと思います。ちょっとずつズレた私たちの所作や手つきは私たちだからこそ得ることできるものであり、大きくなるうなりにどうやってのるかが問題だと思います。理解できることを求めるのなら、世界そのものにならなくてはいけないし、逆説的それは私たちが世界と呼んでいるものの消滅を意味すると思います。
この小説には存在するだけで良しとされるものが何一つとしてありません(強いてあげるなら最後の白い光)。何もかもがどこかの誰かに価値を与えられなくてはいけない。でもついつい誰かに何かして欲しくなっちゃいますよね。そばにあるもの、いる人を大事にしようと改めて思わせてくれる、良い作品だと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?