
移り変わる自分の居場所
その時求めていたものと、数年経って求めるものが違うのは当たり前だ。けれど私はそこで、お別れをするべきものを失うことが嫌で、手放すのが嫌でおそらく不安で、最初いつも見ないフリをしてしまう。「そんなはずはない」「私が良くないんだ」、そんな風に思うことで、別れが来ていることを気付かないように、頭の中を言葉でいっぱいにして、言い訳をうまく作り上げて、気付きを自分から遠ざける。
でもそれは1度芽生えるとおそらく消えず、たまにどこか一隅で、必ずチカチカ光る。光った時、必ず違和感を感じているのに、またなかったことにする。自分の中でそう思わないようにする理論立てがうまくなる。それがあまりにも長く続き、誰にも聞いてもらうことなくいつも見ないようにしていると、おそらく最後には本当にもう一生、気づけなくなるのだろう。それはそれで1つの道でもある。
でも私は多分、どこかのポイントでいつもその違和感を隠せなくなり、見ないフリできなくなり、対象から離れるしかなくなる。離れることをようやく選べる。選べる、というかそうなるしかなくなるまでいったら、必ず別れるしかいられなくなっている。
でも、その別れを自分から望んでいたのに、別れたことを悲しんでいる自分がいる。自分の「こうしたい」「こうありたい」の意志と、感情のようなものが矛盾していて、いつもどうしたらよかったのかのクリアな結論はない。どっちを選んでも、何の不満もないことは1度だってなく、それを感じながら、次第に新たな場所に順応していく。要は忘れていく。自分の中での重要度が、自然とさがっていく。あったことは忘れていなくても、今の自分に関係のあることだという肌触りは失われていく。
これはいたって普通のことだろうし、誰だってそんな風に痛みを感じているだろう。感じながらも傷つきながらも、進んでいくだけ。それを繰り返して、どこかに向かっているだけ。だけどいつも、お別れしたくなる時の、自分の中の感情との矛盾に疲れ果ててしまう自分がいて、途方もなくなる気持ちがする。だけど行動としては、私はもうお別れを選びたくなっていて、さよならをする。
それでいいのだ。それでいいのだと、私は私のコースをただ信じるしかなく、私のコースをただ見つめて、自分の向かう方向だけ感じとることを忘れずに、いつも自分を見つめるしかない。自分の感じたいことを思い出す時間を作ることだけが、私ができること。私がせずにはいられないこと。なのかな。