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伊能忠敬から学んだこと

このところバイクの話ばかりだったので、たまにはバイクから離れた話題でも・・・
と言っても少しばかり歴史好きな僕なので、ちょっとだけ歴史に触れてみたりますがお付き合いください。

僕は長いこと千葉県に住んでおりまして、千葉と言えば長嶋茂雄さんの故郷でもあります。
が、もっと昔は伊能忠敬という偉人がいたことでも知られています。
僕はこの伊能忠敬という人の生涯のほんの少しだけ聞きかじったに過ぎませんが、人間やる気になれば何でもできるし、
62歳でバイクにリターンしたくらいのことで喜んでいてはいけないなぁと、
教えられた気がします。

この伊能忠敬という人から僕が何を学んだか?  って話です。
実は、伊能忠敬が最初に日本地図を作ったのだと思っていましたが、
それが違うことを知りました。
彼の弟子達が地図を書いたのです。
ですが、それでも忠敬がいなければ、あの時代に日本最初の精密な日本地図は完成していなかったでしょう。
伊能忠敬が地図を作ったという理解は間違いではありません。
地図が完成したことも凄いことですが、もっと驚かされたことがあります。

忠敬(敬称略ですいません)は1745年2月に現在の千葉県九十九里で生まれました。
1762年に酒造家である伊能家に婿養子に入り、以後は千葉県の佐原というところに住むこととなります。
忠敬は元々は正確な暦を作りたいと考え、そのための天体観測などをしておりましたが、そのうちに子午線一度の距離がどのくらいなのかを測りたいと考えるようになります。
道具や人足が揃っていても、簡単には測量することもできません。
当時は政治的にも色々と制約があったみたいでしたから、
日本のあちこちを観測して歩くなんてそう簡単ではないのです。

その頃、幕府は日本へ船でやってくる諸外国に対して警戒をしていたこともあり、特に蝦夷(今の北海道)にはロシアが度々やってきていました。
もちろん、ペリー来航よりも半世紀以上前のことです。
ところが海上防衛をしようにも、当時の日本地図といったらマンガのようにいびつなもので、正確性に欠けていて、湾や陸の関係性から戦略的防衛に使えるようなものではなかったようです。

子午線1度の距離を測りたい忠敬は、幕府に対して北海道の地図を作って差し上げましょうと、自ら測量を行うことを申し出ます。
幕府はと言えば、ロシアの脅威に対抗する意味もあって、防衛をするための正確な地図があった方がいいだろうということになり、忠敬の北海道での測量を許しました。

測量できるという自分の欲求と幕府が求める欲求がマッチしたので、
これを良いことに忠敬は北海道へ向けて測量の旅に出ます。
これが 1800年、55歳の時の事です。
以後、弟子や測量の技師達と共に日本全国を測量して歩く旅が続けられ、
1818年に73歳で死没する前年の72歳まで測量は続きます。
弟子達が日本地図を完成させ、幕府に地図を上程したのが1821年ですから、
忠敬の死後、弟子達の手で地図が完成するまでに約3年かかったわけです。

これ、凄いを超えて驚異的なことだと思います。
全て歩いて測量をするわけですから、現代のように車もなければバイクもない、
徒歩ですからね・・・
今の僕にそれができるかと言われたら、どんなに熱意があっても諦めるでしょうね。

今から220年も前に、天体観測をする知識や測量をする技術があったことも凄いです。
しかし55歳から測量を開始して72歳までそれを続けるって、どれだけの根性があったのか、どれだけの熱心さがあったのかと思います。
これはあくまでも想像ですが、当時は平均寿命は今よりもずっと若いはずですから、当時の55才って今でいう60才以上か70才くらいだと思ってもおかしくないんじゃないでしょうか?
そんな年齢から全国を歩いてまわることを考えるとは、尋常なことではないと思うんです。
しかも、その忠敬についていき、測量したデータを地図に落とし込む作業をするお弟子さんが何人もいたとは・・・
人柄が現れているような気がします。

以前、テレビで伊能忠敬が作った(正確には弟子が作った)地図が紹介されていましたが、現代の地図と重ねてもあまり大きな誤差もなく、足で測量したという割にはかなり精度の高い地図に見えました。
少なくとも江戸時代後期にこんな測量のできる人は他にいなかったでしょうね。

僕は還暦を過ぎたジジイだなんて思ってましたけど、まだまだ鼻垂れ小僧だと思っていて丁度良いかなと思います。
年齢を言い訳にしてできることをしない人ではなく、
自分はいくつになっても若者だと言える人になろう、そう思うのでした。


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