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新潟県、富山県、石川県の先祖の墓探しの方法


①先祖探しに於いて墓探しは重要です

 私たちが入手できる最も古い戸籍である明治19年式戸籍に記載されている先祖は、明治19年時点で存命だった人、そして前戸主(主に戸主の父親)の名前になります。

戸籍を超えた先祖調査の方法の一つとして、お墓の調査があります。お墓の形は、地域性がよく見られますが、概ね先祖の記載が掘られているため、戸籍に書かれている最も古い本籍地の近くや、同姓宅が集中している地区の菩提寺や集落墓地を訪問し、墓を一つ一つ入念に確認し、先祖の記載を発見できれば、墓を見つけられ、戸籍以上の調査が出来る可能性が高いと思われます。

*墓の情報から先祖が眠る墓を特定できる、というのは、俗名、享年、戒名などの情報を 墓に直接、もしくは墓誌に彫りこんでおり、戸籍の情報と照らし合わせることで墓の特定に至るということです。

http://www.ugajinsekizai.com/service-detail.php?id=5

②富山県と新潟県では墓の形状が異なります

 ところが、石川県北部、富山県と新潟県などの一部の北陸地方では上記の墓探しの方法は通用しない可能性があります。なぜでしょうか? ここで一般的な北陸地方の墓の形状をお見せしましょう。

新潟県の墓の一例
新潟県のあるお寺の墓たち
富山県の墓たち
石川県の金沢市以北の墓たち

他の地域の墓と違う箇所、どこだか分かりますか? 

答えは、墓に先祖の記載(俗名、享年、戒名)などを彫らないことです。墓誌もありません。塔婆もありません。お墓には先祖の詳細な情報が掘られていなく、真っ白なお墓が多いです。代わりに建てた人の名前を大きく彫ります。(要するに、墓に各家のオリジナルなどない)

例) 令和4年7月 四代 山田庄次郎 建之 など
これでは墓に誰が入っているか確認することはできず、一般的な方法の墓探しは通用しないと分かりますね。

墓誌が存在しない、先祖の記載を墓に掘らない文化が見られるのは、富山県、新潟県のほぼ全域、石川県北部、山口県南部(一部?)、岐阜県の北部、山形県の鶴岡市の一部(新潟との境界線付近)沖縄県全域です。

*山口県や島根県などの一部の山陰、山陽地域にも墓誌文化が見られなかったり、墓誌を作る家が少ない傾向にあるようです。

③北陸地方は浄土真宗の勢力が強い地域


https://honkawa2.sakura.ne.jp/7770.htmlより

北陸地方は、浄土真宗の門徒が特に多く、必然的に檀家も多くなります。浄土真宗では、お墓は故人や先祖を慰め成仏を願う場所ではなく、「極楽浄土へ旅立った故人を思いながら阿弥陀様への信仰を新たにし、仏縁を結ぶ場所」であるとされます。つまり、墓は故人の霊が宿る場所ではないのです。

本来的には、墓へ先祖の情報を掘ることや墓誌には、先祖の名前を刻むことで故人の霊が戻って来る依り代になる役割があるのですが、そもそも浄土真宗では故人となって自然に成仏するため、霊となって墓に戻ることはありません。そのため、墓誌や先祖の墓を刻む必要がないとも解釈できます。(後述する仏壇に位牌がない理由にも結びつくかと)

浄土真宗の墓では〇〇家の墓と掘るのではなく、南無阿弥陀仏、俱会一処などと掘ることに決められています。阿弥陀仏像がたくさん建っているようなものです。そのため、〇〇〇〇建之のように、建てた人の名前だけ掘ればいいのです。

https://www.inoue-bukkou.co.jp/jodo_sinshuu/sinshuu_kakochou  参照ください。

*もちろん、北陸には浄土真宗以外のお寺もありますが、それらの境内の墓も墓誌が無いことが多いです。北陸では、浄土真宗の教えが強すぎて他の宗派に影響を与えた結果、墓に先祖の情報を残さないという独自の文化が根付いたと考えられます。

他にも、表面に「墓」、「代々の墓」、「累代墓」、「墳墓」などしか掘られていない墓も北陸地方では多数確認されます。


福井県の一例(墓誌が復活する)

*北陸地方でも、福井県(正確には石川県金沢市以南あたり)に入ると先祖を墓に掘る文化が復活します。福井も浄土真宗が強いですが、隣の京都では先祖の記載を彫りますので、そちらの影響を受け、先祖の記載を彫る文化が根付いているのかもしれません。

④先祖を偲ぶ際、過去帳を使う

https://www.joshuji.com/2020/07/11/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%B8%B3%E3%81%A8%E3%81%AF/より

 浄土真宗の仏壇にはお位牌がありません。浄土真宗では、仏壇は御本尊である阿弥陀様を安置し、信仰する場所であると捉えています。お墓にも掘らない、お位牌が無いということは、先祖を残す手段がないのか、と疑問に思われるかもですが、あります。過去帳です。故人を偲ぶときに使用します。つまり、位牌や墓の本来の役割(先祖を偲ぶこと)が過去帳に転用されていると考えられるのです。ただ、過去帳は継承者の家にあります。僕らのように、先祖を探す際に墓に記載がない(先祖の記載をオープンにしない)というのは、不便ですよね。過去帳の入手も継承者へのアプローチが必要ですし、困難です。ではどうやって墓を特定するのでしょうか。

⑤先祖の墓を発見する方法

富山県と新潟県の墓探しに必要な物は
1⃣ 戸籍謄本(市役所)
2⃣ 旧土地台帳(法務局)、(閉鎖登記簿謄本(法務局))
3⃣ 現地訪問+墓探し
4⃣ 菩提寺の過去帳(お寺)
です。

1⃣ 戸籍謄本

仮に高祖母、千葉クマの実家、飯田家の墓を探すとしましょう。本籍地は新潟県古志郡長岡町で、現在の新潟県長岡市です。戸籍を見ると、飯田家は、
松蔵→松太郎→松吉→松一郎
の順で相続されたことが分かります。

この戸籍でクマ以前の直系尊属は全員死亡し、除籍されていると分かります。よって、次の松吉を戸主とする戸籍は請求できず、松一郎以後の継承者の名前が分かりません。

松一郎以後の飯田家の継承者は戸籍からは分からない

また、このM19年式戸籍に書かれている、長岡町48番地というのは、明治21年以前の旧地番(番戸、番屋式と同じようなもの)ですので、明治21年後に付けられた現在の字名、正確な地番も分かりません。

2⃣ 旧土地台帳

正確な字名や地番を知り、本籍地を特定したいと思い、法務局で長岡市の旧土地台帳を閲覧し、飯田家のものを発見しました。

字は長柄町 地番は57と書かれていました。地目が宅地ですので、これが明治21年以後の確定した地番で、飯田家が本籍を置いていた場所の可能性が高いです。右から土地の相続者の順として

飯田松蔵→飯田松太郎→飯田松吉→飯田松一郎→飯田松清

とありました。最後の飯田松清は、かなりの確率で松一郎の息子でしょう。これで、飯田家の継承者の名前が戸籍より1代先まで分かりました。

∵旧土地台帳は昭和31年頃までの情報しか書かれていません。松一郎までしか書かれておらず、戸籍と情報同じ場合、31年以後の情報が書かれている、閉鎖登記簿謄本(有料)取ってみてください。松清の記載あると思います。

3⃣ 現地訪問+墓探し
今回の旧土地台帳の調査で、飯田家の本籍地が、「新潟県古志郡長岡町字長柄町57番地」だと分かりましたので、この近辺の菩提寺、集落墓地を探してみましょう。

そして、こんな墓を発見しました!

昭和五十年七月再建 五代 飯田松清 

飯田家の継承者、松清さんが建てた墓の発見に至りました。飯田家の継承者が建てたということは、飯田家の一族が代々その墓に入っている可能性が高いです。

4⃣ お寺の過去帳(住職に懇願)
最終確認として、ここは根気強くお願いするに限りますが、住職さんに事情を説明し、菩提寺保管の過去帳に、飯田松一郎以前の飯田家の当主の記載がないかどうか確認してもらってください。(戸籍を住職に見せて、飯田松蔵、タエ、松太郎、アクの記載が過去帳にないか頼むのもあり)

*菩提寺の過去帳を第三者が見ることは禁止されています。

釋松祥  安政2年4月12日   飯田松右衛門
釋妙尼讃 慶応4年2月19日   松右衛門妻 

釋幸祥  明治13年10月1日 飯田松蔵
釋妙尼讃 明治25年7月23日 飯田タエ
釋亦然  明治29年7月30日 飯田松太郎
釋妙尼女 明治28年4月9日   飯田アク

釋彗祥  昭和30年6月1日   飯田松一郎

過去帳は、亡くなった年毎に他の檀家さんの人も書き出されているため、このように飯田家の当主だけを抜き出して貰います。

このように、菩提寺の過去帳にある、飯田家の先祖の俗名、没年が戸籍に書かれている情報と一致した場合、飯田家の菩提寺はここであり、松清が再建した墓の中に先祖が眠っていると解釈することができます。場合によっては、松蔵以前の情報もあり、安政2年没、松右衛門のように、もう一代さかのぼれるかもしれません。

いかがだったでしょうか。北陸地方(主に石川県北部、富山県、新潟県)は浄土真宗の本来の教えの通り、墓に先祖の記載を彫らない文化ですが、継承者を発見することによって、先祖の墓の発見の糸口が見えてくるのです。ぜひ皆さんも沢山の先祖の墓を探してくださいね。


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