継承者宅の系譜が全ての謎を解決した
いつもご覧くださりありがとうございます。今回は、戸籍謄本の内容が薄すぎてよく分からなかった親子関係の謎が、継承者宅の系譜で全て解決し、それが決め手となって更に別の資料を見つけて先祖が新たに7人も分かった話をしたいと思います。
今回挙げる系統は、私の曾祖母、トキの実家に当たります。トキの父、後藤準蔵は、明治16年~昭和46年、88歳と当時では長寿でありました。大叔父や大叔母の話によると、祖父の準蔵は、
①キノコ採りの名人(山や自然を愛していた。松茸などのキノコがどこにあるか瞬時に分かって採って家に持ち帰って食べてり、孫にあげていた)
②生け花の先生(孫に花を生けてみなさいと言った)
③文化人(書道、茶道、将棋、麻雀が得意)
④準蔵の家では正月に孫たちが帰省すると、一族を囲んで麻雀、将棋大会が始まるのが恒例だった
⑤準蔵の実家は、銘酒、味噌醤油などを作って売っていた
と色々な話を聞くことが出来ました。そんな明治16年生まれの準蔵の出生時の戸籍を請求し、無事に明治19年編成の明治19年式戸籍まで取ることが出来ました。ところが、不可解な点にぶつかりました。
1⃣ 凖藏の父親は何処から来たの?
(写真は一部、姓を加工しております)
請求した秋田県のある役所に残されていた戸籍は、戸主が準蔵の兄の久助のものが最古であり、父の幾蔵の物は残されていませんでした。
久助の事項欄をよく見ると、明治18年9月24日相続スとあります。要するに、父親の幾蔵は明治18年9月24日付近に急逝し、急遽、長男の久助が9歳で家督を継いだということです。この家系は、後藤を名乗っており、母親の『ヂン』は後藤吉四郎(吉兵衛)の長女とありますので、おそらく、父親は何処かの家から婿養子に来たのでしょう。しかし、明治19年編成時に父親の幾蔵は亡くなっており、既に除籍になっていたので、亡き父、後藤幾蔵しか書かれていません。これは大変困りました。準蔵の父方に関しては、廃棄が無いのに江戸時代まで辿る術を失ったと言うことですので。
*幾蔵が戸主だった時代の戸籍は、壬申戸籍(明治5年~明治19年)の書式ですので、請求は不可です。
このように、明治19年以前に先祖が早逝しており、僅かなタイミングの差で明治19年式戸籍に書かれていない場合は大変悲惨です。
2⃣ 戸籍を追う
明治24年8月21日、願済本家●●町、後藤吉兵衛 婦女子のみにて相続の男子無き?なり。且つ、久助一家維持の資産も無きに依り?... 廃し、本家相続の故を以て(久助家)を廃家の上、家族携帯、吉兵衛の養子となる
酷い癖時ですので、文字がよく読めませんが、要するに父親の幾蔵が早逝し、9歳で戸主になった久助ですが、中々経営が上手くいかなくなり、久助の本家の後藤吉兵衛家に入籍したと言うことだと思います。
*次の戸籍から分かる通り、吉兵衛は、久助の母のヂンの弟です
後藤吉兵衛、ノブ夫婦=本家(594番地-1)
後藤ヂン、幾蔵夫婦=分家 (594番地-2)
という扱いでしたが、分家ヂンの家が家の維持困難になったので、ヂンの弟、後藤吉兵衛が戸主の戸籍(本家)に復帰しました。久助、ミヤ、準蔵は叔父、吉兵衛の養子になりました。
ところが、そんな久助の叔父も明治24年に31歳で早逝し、甥の久助が家督を継ぎました。
次の戸籍は、甥の久助が後藤吉兵衛と改名したものです。掠れていて薄い字ですが、明治29年2月16日、山形県最上郡◆◆村403番地に転籍スとあります。全く見慣れない土地です。代々秋田県に本籍を置いていたのに、何故か明治29年に山形県の方に転籍しました。
その戸籍を取ってみると、凖藏の姉のミヤが、
『山形県最上郡◆◆村、榊原甚蔵の養女トナル』
との記載が。榊原甚蔵って誰だ?
秋田県で後藤家が本籍を置いていた秋田県某村594番地の旧土地台帳を請求したところ、
後藤家の大人の男系継承者が絶えてピンチに陥っていた明治24年頃、山形県最上郡◆◆村の榊原甚蔵が土地の相続をしたと書かれていました。土地の税金とかを払ってくれていたってことでしょうか。
また、後藤家が転籍した山形県最上郡◆◆村403番地の旧土地台帳を見ると、これもやはり所有者は榊原甚蔵とありました。
その後、後藤家は、明治37年に元々本籍のあった秋田県某村594番地に戻りました。
秋田県の後藤家は山形県の榊原家に助けてもらっていたということになると思います。そうなると、どういう繋がりになるのか。親戚なのか、それともただの支援者なのか。
3⃣ 後藤家の継承者宅の系譜資料で全ての謎が解決
現在、後藤家を取り仕切っているのは、私の祖父の従兄弟に当たる人ですので、大叔母から連絡を取ってもらい、後藤家の系譜資料が残されていないか確認を取ってもらいました。継承者はご丁寧に家に残されていた系譜資料を見せてくださりました。
これは、凖藏の兄、久助が昭和19年、62歳の時に手書きで書き残したものになります。これを見ると、山形県最上郡◆◆村の榊原家の事がばっちり書いてありました。
やはり、後藤家と榊原家は親戚関係だったのです。幾蔵は、明治18年に早逝したので、明治19年式戸籍を見ても、彼の旧姓は全く不明でしたが、これにて山形県の榊原家から婿養子に来ていたと分かりました。後藤家がピンチになり、山形県の榊原家を頼ったと言うことが良く分かりました。
これにより、私のルーツの場所が秋田県だけでなく、隣の山形県にもあったと初めて分かったのです!
4⃣ 自身が通う大学図書館と国会図書館デジタルコレクションで思わぬ発見が!
私が通う某私立大学の図書館に、榊原家があった山形県最上郡◆◆村史がありました。それを読んでみると、なんと、榊原家の事について沢山の記載があったのです!!
この安部忠四郎 女 という記載から、先ほどの後藤家に残されていた情報の、『幾蔵の母は、阿部忠四郎の三女、折野』と見事に合致したため、準蔵の祖母、折野だと分かりました。そして、文化10年に家督を相続した亀蔵こそが、凖藏の祖父、榊原甚蔵(敬貞)【幼名 亀蔵】だったのです。さらに、その両親、万蔵、貞実まで分かってしまいました。
菩提寺の場所まで書いてあったので、さっそく現地まで行ってみました。
秋沢家、阿部家のお墓も現地で見つけることが出来ました。正直言って、こんな両者50㎞も遠方のところから嫁に来ていることが分かり、本当に驚愕しました。
重左エ門は、ある村の庄屋を務めた名家で、元々ある小さな城の城主だったが、攻め滅ぼされて各地に散らばってある地域に土着して以降は庄屋を務めた家であると書かれていました。
このような感じで、1つ情報が得られると、新しい資料からもっと上が見つかるということがあると実感させられました。明治19年式戸籍からは知る術が無かった中、準蔵の兄の久助が丁寧にも父方のルーツについて書いた書物を遺してくれたこと、不審に思いながらも系譜資料を見せてくださった祖父の従兄弟の方のご尽力があってこその結果です。
このような形で、継承者宅の家系図のほんのわずかな情報から思わぬ展開に至る可能性もありますので、勇気を出して皆さんも協力を求めてみてください。本日は以上です。ありがとうございました。