「花とネクターと死体」(灰谷魚トリビュート)
https://note.mu/haitani/n/n80a16c0a7d74
桜の樹の下には、屍体が横たわっている――。
鹿爪らしく僕がそう言うと、「屍体」は地べたに寝そべったまま、胸の前で両腕を丸めてくすくす笑った。5年ぶりに会うけれどもあまり変わっていない。僕は「意味わからん」と早々に匙を投げてしまう。
「屍体のふりって、生きとるうちにしかできんけんね」
ようやく桜は上体を起こすと体中に散らかった桜の花びらを、しかめっつらで払いのけた。そうして立ち上がらない。再び背中から地面に倒れ込む。まっすぐに伸びた足が成熟を拒否している。地面に直接広がる長い髪もまた。
「その姿勢で花見するの」
「花ぁ!? 花なんて見とうなかもん。桜は好かんし」
桜は口をとがらせながら、かんぺきな状態で落ちてきた桜の花をひとつ口につまむと食べてしまう。嫌いなものでも食べてしまえばなくなってしまう。そういう小説を読んだことがあったっけ、そう言えば。桜は花びら全部をくらいつくす気だろうか。けれども彼女は、もうひとつつまんだ花には、興味なさげに地面にぽいと捨ててしまった。そうして大の字になると、なにやらむずかしげな顔になる。ぼくはふたたび投げる予感をおぼえながら、頭の中で匙を握りしめる。
「こぎゃんして地べたに寝とるとね」
桜のまぶたはゆっくりと動く――閉じる。眼球が、しずかにしずかに動くその動きだけが、まぶたに映っている。
「大地のネットワークに接続されて、自分が広大な意識の一部になった気がするとよ」
僕のまぶたはすばやく目交ぜをする。そうして、一方ではささやくような声が出る。
「そういうもんになりたいの?」
桜のまぶたがゆっくりと動く――開く。眼球がおおきくくるり、と動くのが、もう丸見えだ。
「……わからん」
しばらくの沈黙。やがて僕が深く息を吐きだす前に、桜は、
「あーあ」
そうおおきくため息をつくと、ようやく立ち上がった。そうして、左手で、桜の幹をがっと摑む。
「……桜のいちばん好かんとこはね、桜の樹の下には、ほんとは屍体なんて埋まっとらんってとこ!」
桜の右手には、いつのまにやらネクターが握られていた。そのネクターの飲み口から、どぼどぼと液体がこぼれ出る。
「なんしよっとや」
「殺人現場の保存。チョークのかわりにネクター使ことるだけたい!」
夕焼けが僕たちの顔を赤く焦がす。赤く焦げた桜の顔は、一瞬夜叉のようにも見え、べつの一瞬では桜の相貌にまだ残る幼さを引き立たせている。ネクターがこぼれ出ている。どぼどぼと。ネクターは女の子の脳味噌の味。そういう小説も読んだことがあった。誰の本だっけ? どぼり、と最後の一滴がしたたり落ち、殺人現場は完成する。
「私の屍体ばここに置いていくけん」
そう言う桜の顔は、ぜんぜん屍体には見えなかった。あたりまえだ。若くて健康な女の子が屍体に似ているはずがない。ニッと笑うと、ますます屍体らしさは遠ざかっていった。笑ったまま、僕を置き去りに去ってゆくその足取りは、小鹿にすらもなぞらえたくなるほどに軽やかである。けれども、一切の死を生が拒否するのだとしたら、それなら、生きているとはなんだろうか?
ひとりになった僕は、ゆっくりと「殺人現場」に歩み寄った。僕は、ためらいがちに足を踏み出す。濡れた花びらがキュキュッと音を立て、足の下でぷんと香りを放つネクターはどこか性的な香りで、しゃがみこみながら、あ、僕は桜を好きなのかもしれない、と、そう思う。
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