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「同時複数」と「一」――灰谷魚「花とネクターと死体」について

桜は桜を嫌っている。桜というのは目の前でうるさいくらいに咲いている花の名前であって、目の前で静かに横たわっている女の子の名前でもある。どちらも桜。わざわざ区別する必要は感じない。

灰谷魚さんの「花とネクターと死体」の冒頭です。
ここではまず、「区別する必要は感じない」に注目してみましょう。
ここで何が重要なのか、と言いますと、「区別できない」ではなく、「区別する必要は感じない」である点です。
つまり、主人公にとってふたつの事象は「ほんらいは異なったものである」。
けれども、「差異には目をつぶり、似たような部分だけを見つめることを選択する」。
「区別できない」と「区別する必要は感じない」の違いはそこにあります。
「区別できない」ではなく、「区別する必要は感じない」という主人公にあるのは、積極的な意識の働きである、と言えます。

次に、「どちらも桜」の内実です。
主人公は、花の桜のほうは「うるさい」と感じており、女の子の桜のほうは「静かに横たわっている」と表現しています。
「うるさい」と「静か」は、一般的には対極にあると言える感想ですよね。
しかし、それを「区別する必要は感じない」と判断している、つまり、「うるさい」と「静か」を同様のものとして扱うことを「積極的に」選択している。
遠く離れたこれらふたつの感覚は、本来混ざらないはずです。
逆に言えば、それらを「意識的」に混ぜ合わせることは、相当な力技であると言えます。
けれども、「花とネクターと死体」の主人公は、難なくそれをやってのけているように見える。

それから、「うるさいくらいに咲いている」です。
「うるさい」というのは、一般的に「音」について言うものですが、ここでの「うるさいくらいに」というのは、なにも、桜がべらべらと余計なことをしゃべりまくった、の意味ではないでしょう。
桜が咲き誇っているさまを表現する修辞、たとえば青い色を見て静かさを連想するような、共感覚、と呼ばれるものでしょう。
ところで、共感覚、というのは、五感の機能をそれぞれが断絶したものではなく、相互に滲透しあうものととらえることです。
滲透し合う――すなわち、視覚、聴覚といった命名が、さまでに意味をなさない、むしろ、それらを渾然としたものととらえることです。
その作用にある、ある種の不明瞭さ、不透明さを念頭におきながら、もう一度、前項であげた「うるさい」と「静か」を同様のものとして扱う主人公を見直してみてください。
にわかに彼のことが理解しやすくなりませんか。
つまり、彼は「うるさい」「静か」と反射的に認識してはいても、そういうものをあえて渾然と(桜の花を「うるさい」と言うように)とらえたがる感覚の持ち主である、ということです。

このような主人公の心理と深いかかわりがあるように見えるのは、彼のこんな立ち位置です。

ばりばりの方言。僕はもうそんなにうまく田舎の言葉を操れない。

彼は聞く方については、方言と標準語(東京弁が標準語か、ということは、ここではとりあえず措いておいてください)のバイリンガルでありながら、しゃべるほうになると「標準語しかうまく使えない」と弱腰になる。
つまり、聞く方の言語領域と、しゃべる方の言語領域にずれが生じていることを強く認識させられているわけです。
そのようなずれを、包括するような存在で彼はなければならない。
すなわち、自身をまず渾然ととらえ、その渾然をうまくあやつるところから、主人公ははじめなければならないのです。

主人公の他者をとらえる目にもそれは現れているように思います。

桜の思想が空中で回転し広大なネットのどこかに見事な着地を決める。(略)それは世界中のどこにだってつながっている可能性があるのだ。

いまここにいる桜を見ながら、彼は「広大なネット」「世界中のどこにだって」を意識します。
いまここ、と、ここではないどこか、その両方が、彼の目の前には同時に繰り広げられるわけです。

けれども、そのようにしていったん捉えられた桜の実際はどうでしょうか。

そしてそのことが逆に、山奥の田舎から一歩も動けない桜をいまでも死ぬほど苦しめている。

あちこちを飛び回り、それらをみな等価に共存させることができる主人公に対して、彼女は「動けない」。
単に動けないだけでなく「一歩も動けない」。
多と一。この小説の主人公と桜は、そのように比較できるでしょう。
そうして、「花とネクターと屍体」は、「区別する必要は感じない」と言っていた「同時複数」の主人公が、「一」の立ち位置に寄り添っていく小説である、と言うことができます。

「なんしよっとや」いつのまにか僕にも方言が戻る。

方言を取り戻す、ということは、この小説においては、自身の中のずれが消えることを意味します。
つまりは、物事を渾然一体ととらえる内的動機の喪失です。
続く部分は、もっとも端的に主人公の変化をあらわしている部分でしょう。

どぼどぼどぼどぼ「今日までしかこっちにおらんとでしょ?」どぼどぼどぼどぼ「私の屍体ばここに置いていくけん」どぼどぼどぼどぼ「たまにはお参りに帰って来なっせ。わざわざ私に会わんでも良かし」どぼどぼどぼどぼ

ここで「どぼどぼどぼどぼ」は、明らかにノイズとして機能しています。
もはや主人公は、ふたつの声をあたまのなかでミックスさせ、一体としてとらえることができません。
「区別する必要は感じない」とうそぶくことはできず、明確に「区別されたもの」としてそれらをとらえている。
そこにある意識は、おそらく、「どぼどぼどぼどぼ」もしくは桜の声を、ミックスのしようがないもの、高らかな独唱として聞き取りたいという思いなのではないでしょうか。
そうして、どちらを主人公がしっかりと聞きたいかは、もちろん火を見るよりも明らかなのです。

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