「マトリョシカ」を見た
劇団「青春の庭のうさぎたち」の第6回定期公演、「マトリョシカ」を観ました。
青うさぎは初めて脚本を書かせていただいた劇団、言わばホームベースです。(第4、第5公演の脚本を書かせていただきました)そのため少し懐かしい気持ちになりました。
本題、マトリョシカについての感想なのですが、後述の通り私の創作スタイルと大きな隔たりがあり、まとまった感想が書けませんでした。そのため乱文です。
・私は始まりがあり終わりがある、軸の通った、固定された脚本を書く。モノで例えると「地球儀」に相当する。その点マトリョシカは、始まりはあるが終わりのない、振り子のような作品だった。見る人によって抱く感情がかなり変わる演劇だと思う。私は考察的な結論を出せなかった。
・セミ、羽化したてだから衣装が白い、羽化したては声が出ないなど、生態に即していて面白かった。俳優などの人生を夢に見るのはフラグがあった(ニュースなど)けど、セミの夢を見たのは何故だろう?(大声を出せない自分の比喩?それなら俳優は人気者になりたいと言う願望、老婆は何もしないまま老いてしまうことへの恐怖?でも老婆は老婆なりの幸せを見つけていたし、「潜在的な恐怖・願望」には繋がらない)
・3つ目の夢まで、生殖と死に絡んだ話が多いと感じたから、「性と死」がテーマかと思ったら違った
・ワンシチュエーション、大道具の移動無しで110分持たせたのすごい
・キャラの切り替え(みっけん→主人公など)が面白かった。こういう演出が続くかと思ったら、後半は主人公と夢の中の主人公が同時に出てきたりと、入れ替わりの演出の一貫性が無いところは惜しく思った
・1つ目の夢、なじられるシーン、一瞬間があるのが怖くて良い
・夢の中の人は、自分の終わり方を選べていない。ただ、それなりの成功や幸せも持っていたと思う。終わりを選べるが成功も幸せもない(ように見える)主人公とそうでない夢の中と、どちらが幸せなんだろう
・起承転結というより、起転転転転といった感じ。
・もしこれが全て夢なのだとしたら、主人公は「俳優には人気と引き換えに苦悩がある(人気者になってもしょうがない)」「かつては恋をしていた少女もいずれは老いて1人で死ぬ(結婚しても…)」「天才少女は家族を機能不全に落としいれる(才能を持っていても…)」「生命力溢れるセミは1週間で死ぬ(大声出しても…)」という光の裏の影を感じることで、主人公は自分の平凡さを祝福しようとしたのかもしれない。足るを知るのような。