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描きたい世界を自分で作るということ
半年前、私は、出口の見えない混沌とした感情の中にいた。自分の感覚に自信がなくて影響力のある人を盲目的に信じてしまうような、自分のことでさえ最終決定は誰かに委ねたくなるような、他者が描いている世界の中で自分を演じることで精一杯だった。
心のことを学び、3年前に痛手を追ったどん底からは脱したものの、出口付近まで来ているのに、出るに出れない、そんな感に近いのかな。
そんな時、irodori社で推奨してくれたコアエッセンスさん(心の学び)に通い
やっとやっと、過去苦しかった感情をそっと手放してあげていいと思えた。「あの時辛かった」が、いつの間にか私のアイデンティティになっていて、それが支えになっていたことに気づき、それがなくても、もう大丈夫。私は自分で立てる。そう思った時に、初めて「トンネルから出た」とはっきりした感覚があった。
そして、今日「心の学び」の後半戦スタートを切った。描きたい世界を自分で作るために。
幼少期から、私の父はうつ病で、長年心療内科にお世話になっていて、働けくこともままならない、感情がコントロールできない、そんな父親をずっと受け入れることできなっかった(今もまだ)。
だからこそ、どこか「心について学ぶ」ということや、「自分の中にとても繊細な感情がある」ということにすごく抵抗感があった。「弱い心を持っている人はダメな人」「心に向き合う人は現実から逃げている人」という思い込みと共に、自分にそんな一面があることを認めたくなかった。
でも、逆だった。「心について向き合う」ということや、「自分の中にとても繊細な感情がある」ことにまっすぐ向き合える人ほど、人生をしなやかに生きることができる「強さ」なんだと思えるようになった。
今までは「人と深く繋がりたい」そう願いながらも、そこにたどり着くまでの過程をどこか避けてきたような感じがしていて。心を開いてその場では楽しそうにしているのに、どこかいつも居心地が悪く勝手に孤独感を感じることも多かった。
その感情を「居場所がない」とも変換する時も、絶対に自分を傷つけない「この人は大丈夫」と思える極々僅かな人と一緒にいることで、自分の心の安心を守ってきた時もあった。
人と深く関わりたいのに、深く関わることが怖いと対極のような葛藤をそばに、自己対話ばかり深めていた。自分の安全領域を探すための観察力が自然につき、その場でどのように振る舞うのが正解かも瞬時に判断していた。そして、人に直接表現することが苦手な分、頭の中のものを書いて整理する力が自然についた。
ある程度の正解がある世界では、その枠の中で生きることで安心することができた。でも、年齢を重ね、時代も変わり、自分の置かれている家庭も仕事も環境が変わり、それでは自分が描きたい世界が作れないことに頭を打ち始めた。
自分の中にドロドロした感情があることを散々見てきて、その度に自分というものをなかったことにしたくなるくらい毎回ダメージを喰らった。今までは、そこで終わっていた。
ただ、心の学びを通し、そのダークサイドな感情を受け入れることができ、そこを癒すことができたからこそ、辿り着きたい未来が鮮明になり始めてきた気がする。
自分の輪郭を捉えられるようになったものを、人を介してもっと素直に表現したい、もっと構えずにフラットに人と関係性を作れるようになりたいという願いが強くなった。葛藤や苦しみがあるたびに、その願望が強くなっていくのがわかった。
「描きたい世界を今の私なら歩める」そう思った。自分を真ん中に置いて、自分主体で人生を生きたい。
そして、書き終わった後で、大きく感じる違和感。自分のことなのに、どこか格好つけていて、客観的で、自分の人生に主体的に入り込めていない引っかかりがある。
そこを脱した先の自分の体感を通して、もっと力を抜いて自分の心の奥にある力強い気持ちをまっすぐに人に伝えていきたい。そう決意を持った後半戦の初日。