【小説】03 それは邂逅
羽根が、舞う。
一羽の小鳥が、地面に堕ちた。
羽根を折られ、不自然にひしゃげた首。
しなやかなラインは、血に染まる。
それが、冴が初めて見る『死』というものだった。
彼女は動かなくなったそれをすくい上げる。
驚くほど美しい真紅は、冴の衣服にシミを作った。じわりと、広がる朱。
小鳥は、あっけないほど簡単に、死んだ。その生を散らせ、ただの物体と化す。
「冴?」
声が降ってくる。
甘い、粘着力のある高い声。
それは冴の身体を這い、執着なほどに絡みつく。
「あぁ、小鳥が死んでしまったのね? 可哀そうに」
声は冴の掌の中にあるそれを見て、言葉とは裏腹に、薄っすらと笑みを浮かべた。
「でも冴? これで、小鳥はもう二度と冴の傍から逃げたりしないわ。良かったわね?」
甘い、甘い声。気持ちの悪いほどとろんとして、ゆっくりと紡がれる言葉は、冴の身体を絡め取る。硬直したように、動けない。
何が良いの……言葉が出そうになって、冴はそれをグッと堪えた。代わりに、頷く。
「ああ、冴。私の言うことがちゃんと解るのね? 何て可愛い子。何ていい子なの? 冴、私の可愛い冴」
気持ちが悪い。
けれど、母親の言葉に従わなければ、今度は自分がこの小鳥のようになる番なのだ。冴には、それが解っていた。
母親は、狂っている。
捻じ曲がった愛情。
執着な愛は、いつからか母親を異常に狂わせるようになった。どこで捻じ曲がったのか、どこでずれたのか、冴はその切欠を知らない。
「冴、見て御覧なさいな。この綺麗な真紅。あぁ、なんて美しいの」
母親は、冴から小鳥をひったくると、流れる血にうっとりと魅入る。
冴はゾクリと背筋を凍らせた。
美しい?
血が? それとも、死が?
醜くひしゃげた小鳥の首。羽根は折られ、捻じ曲がっている。
これが、美しいというの?
「永遠に、永遠に私だけのもの。私を裏切らない……それが死よ。冴、あなたも、私だけのもの」
狂喜する母親。
冴を抱きしめる彼女の身体は、ごつごつとして痛い。骨と皮だけの身体。それは冴も同じだったが、母親はもっと酷かった。
まともな食料はない。この大陸では親が子ども売るか、殺して食べるかだ。そうやってどうにか生きながらえているような、そんな場所だ。その考えがないだけでも、彼女の母親はまだマシなのかもしれない。
ただ、冴にとっては、どちらも似たようなものだった。
ゆっくりと近づく死に恐怖する毎日を送るか、突然に襲ってくる死を味わうか。それだけの違いだ、結局は。
母親は狂っている。
いつか自分も、小鳥と同じ運命を辿るだろう。
この女は、娘が大事にしていた小鳥を殺し、そして、娘をも手にかける。いずれ。
「愛してるわ、冴。あなただけが全てよ」
それは本当に愛?
冴は無表情に母親を見つめた。彼女は微笑んでいる。どす黒く、まるでミイラのような顔。
彼女の愛と、少女の愛は、決してかみ合うことはない。すれ違い、歪んで、消えていく。
「冴。ずっと私の傍にいるわよね? 裏切ったり、しないわよね? あの人のように……あなたはいい子だもの」
裏切りのない、愛。
独占欲からくる、執着心。
縛り、括り付け、動けなくして、愛を囁く。愛河に溺れた醜い女。
愛護 愛重 愛惜 愛執 愛染 愛念……
そしてたどり着いたのが、愛憎?
異様なまでの執着。
壊れたレコードのように、同じ言葉ばかりを繰り返す。
それはまるで、呪詛のよう。
呪われた、愛。
いつか向けられる刃。
愛してると囁きながら、なぜ矛盾した行動をとるのか。
女の感覚はとうに麻痺し、死という現実を受け止められなくなっていた。
ただ、動かないだけ。
けれど、冴にはその感覚がまだ生きている。
間近に見た、死の恐怖。
母親が愛に執着するように、少女は、生に執着する。
思いは渇望となり、自我を強くさせる。
それでも、冴は母親を切り捨てられなかった。矛盾していても、愛していたから。
あの血に塗れたナイフを、突きつけられるまでは―――――
冴はしばし放心した後、何かに打たれるように我にかえった。
厭なものを思い出してしまったと、薄っすらと額に浮かんだ汗を拭い、気持ちを切り替えるために軽く頭をふる。
今はこうして悲観に耽っている場合ではない。解らないことだらけのこの現状を、一つでも理解しなくては。結局は、自分で答えを見つけるしかないのだ。
彼女は決意したように頷き、重たい腰を上げ、立ち上がる。
ぐるりと部屋を見渡し、改めて部屋の巨大さを思い知ると、冴は嘆息した。
とりあえず、この部屋にいても埒があかない。恐る恐る部屋の扉に手を掛け、カチリと開く音を背にそのまま部屋を出た。扉を後ろ手で閉めて左右を確認し、誰もいないことが解ると廊下を小走りする。
長く、無駄なほどに広い廊下。先ほど辿った道のりが、すでにわからない。どこも同じような景色に見えて、冴はすぐに行き詰る。
試しに近くの部屋の扉を開けて見たが、自分の部屋とたいして造りが変わらないことだけしか解らなかった。何の手がかりにもならない。
冴は肩を落とす。
先ほどの青年は、どこへ行ったのか。何かあったら呼べといっていたが、これではどうにもならない。彼を呼ぶ術がなく、また、呼びに行くことも叶わない。このままでは、先ほどの冴の部屋までも帰れない。
「全く、どこに行ったの? ディオったら!」
冴が肩を落としていると、曲がり角の向こうで少女の怒号の声が響いた。人が近くにいることを知り、緊張とともに一筋の希望も見えた。
「大体、真正面から尋ねて行けばいいものを! このように回りくどいことをするから! あぁ、もう! ワタクシを置いていくなんて……信じられないわ!」
少女の怒声は続いた。かなり腹をたてているらしいその声は、冴の耳をつんざく。それでも無意識に駆けだし、声のする方へ進んだ。
角を曲がると、そこには一人の幼い少女が廊下の真ん中で地団駄を踏んでいる姿があった。
「見つけたらただではおかないんだから!」
冴は咄嗟に歩を止める。殺気立つ少女を目の当たりにすると、とてもじゃないが声を掛けるのは躊躇われた。
「だから止そうと言ったのに。ワタクシはドーマの中でもここのドーマが一番……あら?」
途中で言葉が途切れた。少女が何かに気づいて、ふいに視線を逸らす。冴の方にゆっくりと顔を向け、彼女の存在を認めると、その大きな瞳がさらに大きく見開いた。
「驚いたわ。何度か来たことがあるけれど、人がいるのは初めてね」
警戒というには大げさだけれど、気を許しているかと言えばそうでもない、微妙な距離感。
お互い探り合っているような、複雑な空気。
「あ、私は……私も迷ってしまって」
先ほどまでの台詞を聞くに、少女も迷っているのだろうと、冴は共感して見せた。
あくまで敵意はない意志を伝える。
少女は不思議そうに首を傾げながら、どこか思案するようにそれでも冴の傍まで歩み寄ってきた。
見た目は十になったかならないか位で、肩のあたりまで伸びたくるりと巻かれた藤色の髪に、藍色の瞳。お人形のように可愛らしい出で立ちは、まさにお嬢様といった風格だ。
「迷う? 貴女はここの住人ではないの?」
「えっと、最近ここに来たばかりで。私もよくわかってなくて……」
「やっぱり! 貴女ドールね?」
冴の答えを待たずに、少女は満面の笑みを浮かべた。途端に警戒が解かれ、好機の目が向けられる。
「女の子なのね! 嬉しいわ! 女の子のドールはワタクシだけだったから」
「えっと?」
「あ、自己紹介がまだだったわね。ワタクシはロコ。南のドールよ。東のドーマがドールを完成させたって聞いて、ディオがどうしても見に行きたいと言うものだから渋々来たのだけれど、来てよかったわ! あ、ディオっていうのは、ワタクシのドーマなのだけど、途中ではぐれてしまって……そうだわ、ディオも探さないと。困ったわねぇ」
矢継ぎ早にポンポンと会話が飛ぶ。
冴は目まぐるしく流れていく言葉のほとんどの意味が解らなかった。まるで言葉の通じない世界に来たみたいに。
「ところで、貴女お名前は?」
「あ、私は冴」
「冴えわたるの、冴、かしら? いい名前ね」
屈託ない微笑を浮かべる少女に、冴は思わず固まった。名前を褒められたこともそうだが、こんな風に悪意無く敵意なく好意を向けられたのは初めてだったから。
冴は照れるのを隠しきれず、思春期の中学生男子さながらの様子で返答した。
「ロコも、可愛い名前、ね」
「あら、ありがとう。嬉しいわ。ね、仲良くしましょう? 折角同じ女の子同士、ドール同士なのだし」
「ドール?」
先ほどからちらつく単語で現実に戻ってきた冴は、思った疑問を口にする。
「ドールって、何のこと?」
「え? 冴、貴女もしかして何も知らずにここにいるの?」
「それって、突然姿が変わったことと関係があるの?」
「……そこからなの? あの男は一体何をしているの!?」
ロコが血相を変えて憤怒した。
さっきまで和やかだった雰囲気が、一気に殺伐としたものに変わる。
何に腹を立てているのか分からない冴は、突然湯気を上げた少女に困惑するばかり。
「ロ、ロコ? 私、何かまずいこと言った?」
「貴女は何一つ悪くないわ! 悪いのは全部東のドーマよ!! 何の説明もなしに貴女をドールにしたなんて信じられない!」
え? と冴が首を傾げる前に、遮るような足音が響いた。
「落ち着きなよ、ロコ」
続けて声。二人は咄嗟に振り返る。
そこには、先ほどの無表情な漆黒の青年と、もう一人別の、人懐こそうな笑顔を浮かべた青年が立っていた。
「ディオ! 貴方今までどこに……っ!」
漆黒の青年の後ろからひょこりと顔を覗かせていた人物を見つけて、ロコが声を張り上げる。
「途中で逸れちゃったから、先に凪の所へ挨拶にね」
「そこは先にワタクシを捜すべきでしょう!? こっちはどれほど捜したかっ! 置いていくなんて最低よっ」
怒りが頂点に達したようで、今にも喰ってかかりそうな勢いだ。ディオと呼ばれた青年は、慣れたような様子で困ったように笑う。やり取りからして、おそらくいつものことなのだろう。
年の頃は二十歳を過ぎたか過ぎないかくらいで、体格がよく、親しみやすそうな雰囲気を纏っている。
髪は光の加減で赤にも見える茶色。瞳は深海のような深い蒼。透き通った美しいその瞳に、吸い込まれそう。
冴を助けた漆黒の青年もそうだが、彼もまた青年とは違った整った容姿をしていた。
「置いていったわけではないんだよ。屋敷内にいることはわかっていたし、とりあえずよそ様の家を訪問するんだから、挨拶しとかなきゃ失礼かなって。ちゃんとその後で探そうと思ってたよ? まぁ、心配はしてなかったけどね」
「少しは心配なさいなっ! 敵陣で自分のドールが行方不明になったというのに!」
「敵陣、という表現は的確ではないよ? 僕は彼と敵対してるつもりはないんだから」
「ディオはそうでも、そこのドーマはどうだかっ」
言い放つ少女は、ギロリと無表情にことの成り行きを見ていた青年を睨む。彼はその視線を受け止めながら、ただ冷ややかな表情だけをくれた。
冴はその状況に全くついていけず、口を挟むことすらできない。焦りもあったが、どうすることもできずにただ途方に暮れるばかり。
ロコの口から何度も繰り返し紡がれる単語。ドールとドーマ。これの意味が、決定的にわからない。
「まぁ、ディオのことは百歩譲って置いておくとしても、そこのドーマったら冴に何の説明もしていないのよ!?」
「まぁまぁ。落ち着いて、ロコ。今からそれを説明しようと思って、二人を探していたんだよ」
焦る様子もなく間延びした口調で幼女を落ち着かせ、青年は冴に視線を向ける。にこりと浮かべた微笑みと、慈しむような視線に、息を呑む。
「始めまして、僕はディオール。突然何が起こったかわからずに不安にさせてごめんね? ちゃんと説明するから、ここでは何だし、移動しようか」
ディオールと名乗った青年が、隣にいた青年に視線を投げた。案内してくれ、と目で語る。
彼はそれに小さく息を漏らし、踵を返した。
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