「いなフリ」にまつわる5年分の出来事を本音とともに振り返る
特に誰かに聞いたワケではないんだけど、いなフリ卒業生の中で最も田舎フリーランスをやっているのは自分だと思っている。異論は認めますが聞きません。めんどくさいので。
今の自分があるのは間違いなくいなフリのおかげ。「いなフリ」のすべてを味わい尽くした結果が現状であると言っても過言ではない。
僕と「いなフリ」の関係は大きく分けて3つのステージがある。
【1】いなフリ受講前「会社員やりながらの週末フリーランス」
【2】いなフリ受講〜フリーランス1年目「個人で稼ぐ基礎の習得と実践」
【3】フリーランス2年目〜法人化「さのフリ運営として」
長くなるがひとりのフリーランスの生き方として参考になることもある(かもしれない)のでお付き合いいただけると歓喜いたします。
【1】いなフリ受講前「会社員やりながらの週末フリーランス」
大学を卒業して就職のため上京。転職した先の飲食店で順調に出世をし、仲間にも恵まれ、充実した日々を送っていた。しかし、30歳を超えたあたりからモヤモヤしたものを感じ始めているのも確かだった。
不満という不満はない。だけど、なんとなく不安。
「ホンマにこのままの人生でエエんやろか?」
疑問はあるものの、特にやることも分からない。とりあえず、当時盛り上がっていたブログを始めてみることにした。会社にバレるとよくないと思ったので名前も変えた。
「副業ブロガーろっかく」の爆誕である。
当時はブログひとつで稼ぎまくる人がインフルエンサー的な活動をし始めていた頃。学生の時にブログで成功し、そのまま独立する「新卒フリーランス」という言葉を聞くようになったのもこの頃だ。
僕はというと、インフルエンサーブロガーが主催するオンラインサロンに入会し、ブロガーとしての活動を開始。オンラインでのやりとりやオフ会に参加するうちに、少しずつ会社では出会うことがなかった人たちとのつながりができ始めた。
そこで出会ったのが今ではリバ邸やCAMPFIREのパートナーとして活動されているぼりさんだった。料理人からフリーランスという経歴を歩んだぼりさんとの話は大きな衝撃だった。
▼2017年当時の記事達▼(フレッシュ感満載ですw)
会社や店でしか働けないというのは思い込みでしかなくて、自分から機会を作っていけばもっといろんな働き方ができるかもしれない。ヒントを得た僕はさらにいろんな人に会い、いろんな場所に行ってみた。
そんな中でいよいよ「いなフリ」と出会うことになる。
まるじさんというこれまた料理人からフリーランスになった人がいる。ほぼ同世代であるまるじさんは、会社をやめたあとに「田舎フリーランス養成講座」という合宿に参加し、そのまま千葉県の金谷に住んでいるという。
よう分からんけど、なんか気になる。すぐに約束を取り付け金谷に行ってみた。上京してから初めての内房線。ちなみに浜金谷駅に降り立った時の第一印象は「東京からめっちゃ遠いやん。こんなところでフリーランスってやれるもんなんか、、、」です。
まるもではまるじさん以外のフリーランスとも交流することができた。真夏のまるつーに泊まって、これからのことを考えた。
▼その時の記事がこちら▼
結論としては2018年で会社を退職し、フリーランスになることだけは決意。具体的なことは副業フリーランスを続けながら考えていくことにした。
その後は、いなフリ関連のイベントやセミナーに参加しまくることになる。
▼初めてのいすみ▼
▼まるもでイベントを主催▼
▼初めての都留▼
そして2019年1月。地元大阪に戻っての「フリーランスろっかく」がスタート。
特に強い人脈があったわけではないので、できることをやりながらイチからのスタートという感じだった。その時の記事もある。今読み返してみると、だいぶイキってるなぁ。なんか、かわいらしい。
勢いよく飛び出したものの、仕事はほとんどない。たまに入る出張料理の依頼とブログが生み出す数千円の収益がすべて。ただ、実家に住みながら農業をやっていたので、死ぬことはなかった。
幸い、退職金と10ヶ月の失業手当もあった。が、このまま何もしなければジリ貧になるのは目に見えていた。
問題は営業のやり方がまったく分からなかったこと。たくさんのフリーランスに会って、分かったつもりになっていただけで、肝心なところは何も理解できていなかった。
【2】いなフリ受講〜フリーランス1年目「個人で稼ぐ基礎の習得とセルフブラック」
2019年2月。愛媛の大洲で開催された「いなフリ」で出張肉会をさせてもらった。
不思議なことに、フリーランスになってから見る「いなフリ」の現場は会社員の時とまったく違う印象だった。
必死になって取り組む受講生の姿が、めちゃくちゃカッコいい。対して自分は、何ができているのだろう。
統括のヤマさんと話しているうちに、ふと思った。
「いなフリ、受けよう」
今の自分に足りていないものは全部「いなフリ」にある。そう確信した。
調べてみるとちょうど募集中の拠点がいくつかあった。その中で鹿児島県頴娃町で受講することに。あえて知り合いもいない、まったく新しい環境で学び直して気合を入れようと考えたのだ。
ちなみに受講生ながら料理人も兼任するという、おそらく誰も達成していない二刀流もこの時に達成している。
受講中の詳細については下記の記事に譲るとして。
「いなフリ」1ヶ月の間に、統括のクラさんやメンターのアブさんに粘り強く付き合ってもらって、初期でつまづきそうなところを徹底的につぶせたのは大きかった。
おかげで今の自分に何が足りていないのか、そしてこれから何を最優先するべきなのかが明確になった。あとは最速でそれをやりきるだけ。
とにかく結果を出すこと。メインとなるのは動画編集。それ以外は捨てる。それ以外のことはあとから考える。なんともシンプルな作戦だった。
実家に戻ってもいなフリロスなんてものはまったくなく、ひたすら作業漬けの日々が始まった。
冗談じゃなく、こういう生活を2ヶ月ぐらい続けた。兼業農家の復業フリーランスというスタイルが自分には合っていたらしい。
早朝農業をする以外はほとんど引きこもって作業。家族以外の会話はなし。外出は週に1回あるかないかだったが、めちゃくちゃストレスフリーだった。
10年以上のサラリーマン生活に慣れすぎて、ひとりで仕事が完結するのが快適過ぎたのだ。誰に気を使うこともなく、自分がやればやるだけ売上に反映されていく。サラリーマンの給料なら1年かけてやっと上がるかどうかみたいな金額が、フリーランスなら1ヶ月で余裕でブチ破れるのだ。こんな楽しいことはないよね。
このまま続けていけば月収30万円は確実に超えられる。と同時に動画編集だけをひたすら続けるのも大変だということが分かってきた。
となると次の目標が必要になる。そこで目をつけたのが「いなフリ」に講師として参加することだった。
当時の「いなフリ」に動画編集講座はなかった。なので僕自身は「いなフリ」参加中にもかかわらず、動画編集スキルは独学で身に付けた。ということは、今動画編集講師になればいなフリ史上初ということになる。このポジションを狙いにいくしかない!
そう考えてSNSの発信にも力を入れた。気がつけば少し前まで「出張料理人、肉会の人」だった僕のイメージが「動画編集をガチっている人」に変わった。動画編集についての質問もいただくようになり「動画編集者ろっかく」としてのブランディングは確実に成功しているようだった。
そして「いなフリ」卒業から約半年経った2019年10月。都留で開催された「いなフリ2.0」に動画編集講師として登壇することになる。初開催にもかかわらず2週間。10人の方が参加してくれた。
もちろんめちゃくちゃ気合を入れて臨んだ。毎日毎日が1対10の真剣勝負。自分がやれないと他に頼れる人はいない。ここでの経験が僕を一段上のステージに連れて行ってくれた。
動画編集者と講師という2つの武器を得たことで、営業も有利になった。こちらから積極的に営業しなくても、紹介してもらえるなんて当初は考えられなかったことだ。
紆余曲折あったフリーランスのスタートだったが、1年も経たずサラリーマンの時以上に稼げるようになった。「いなフリ」に参加しなかったらこうは順調にいかなかっただろう。やはり、徹底的に基礎を叩き込んでもらったことが大きい。
2020年2月には「いなフリ2.0」の第2回動画編集講座を金谷で開催。「いなフリ」の原点である金谷で講座をさせてもらえたことは本当に大きな自信になった。
そこでまた大きな出会いをすることになる。泉佐野市で事業をやりたいと考えていたがんちゃんの登場である。がんちゃんは別会場でいなフリを受けていたのだが、わざわざ金谷まで会いにきてくれたのだった。
自分以外の口から泉佐野市という言葉が出るのが嬉し過ぎて、その場で泉佐野市での再会を約束した。
【3】フリーランス2年目〜法人化「さのフリ運営として」
2020年前半は新型コロナの対応や新規事業の立ち上げで忙しく「いなフリ」に関わることがほとんどなくなっていた。難しい対応を迫られる中開催している他の拠点の様子をちょこちょこチェックするぐらい。
1回目の緊急事態宣言が解除された後にがんちゃんが泉佐野市にやってきた。お互いのやりたいことを話しまくり、すぐに意気投合した。
「泉佐野市でいなフリやりませんか?」
そう言ったのはがんちゃんだった。僕も泉佐野で「いなフリ」ができたら最高だなぁとは思っていたが、たった1人でできるわけでもなく、まだまだ先のことだと考えていた。
でも2人ならできるかもしれない。再会して初日の夜「さのフリ」はスタートした。
そこからは怒涛のように進んだ。運営の行武さんとハリーに連絡し、視察の日程を調整。並行して受講生が泊まる物件を探す。統括は僕がやることになったが、講師とメンターが足りないのでお願いできそうな人に声をかける。
無事に9月開催が決まった。準備期間は3ヶ月。すぐに募集も始まる。
関西では初めての「いなフリ」だ。しかも自分の地元泉佐野市での開催ということで、始めから終わりまで徹底的にやり抜こうと決めた。がんちゃんが拠点の整備を進めてくれているうちに、ひたすら希望者との面談を繰り返す。
まだやったこともないのに、めちゃくちゃいいものになるという自信があった。だからこそ、絶対に佐野で受けてほしいという気持ちだけでしゃべっていた。
初開催ではあったけど、定員も埋まり第1回「さのフリ」は無事に決行。動画編集講座と違い、今回は自分外にも講師やメンターがいる。しかも、はるばる千葉から来てくれた。
統括としては、受講生だけでなく、運営側も含め全員が来てよかったと思ってもらえることが必達目標だと決めてた。「さのフリ」に集中するためにそれまでやっていた制作の仕事も全部辞めていたので、もうやるだけだ。
嬉しいことに多くの参加者が結果を出してくれたし、自分なりの方向性を見つけることができたと感じている。最後の終了パーティーは深夜3時までギターを弾きながら歌ったり、神輿を担いだりしたのは今でもいい思い出。
もちろん、成功したことばかりではなかった。その中でも場所の問題は大きい。自宅を改装したシェアハウスと講座会場ではどうしても制限が多く、受講生のみんなにはかなり苦労をかけてしまった。おまけにシェアハウスと講座会場の距離が車で30分ほどかかってしまい、毎日の移動でも負担は大きかった。
2回目の開催ではこの課題をクリアすることが必要だった。
自分たちだけでは限界があったので、地域の方の協力を得て、シェアハウスと会場を徒歩圏内で確保することができた。これで完璧な「さのフリ」ができる。そう確信できた、はずだった。
2021年5月。「さのフリ」2期を開催。結果的にはめちゃくちゃ大変だった。今年から新体制になってカリキュラムが大きく変わった上に、シェアハウスや会場設備について事前説明が受講生にできていなど、始まってみると問題が山積。
受講生、卒業生、運営、地域の方々。あらゆる方面から厳しいご意見も頂いた。
後から考えたら事前に対処できていたことも多く、完全に自分の脇の甘さが原因。めちゃくちゃ悔しくて、情けない。こんなはずじゃなかったのに。いろいろな感情が渦巻いていた。
始まる前の自信なんてどこにもない。正直、ちょっと泣いた。
それでも次の日には講座が始まる。途中で止めるわけにはいかない。
最終的には目の前にいる受講生のことだけ考えようと割り切った。全員を納得させられるだけの答えなんて出せないし、1番大変なのは慣れない環境に身を置きながらも必死にがんばっている受講生のはずだから。
笑って受講生のみんなを見送れたのがせめてもの救いです。
「さのフリ」2期のことを書くかどうかは非常に迷ったけれど、いいことも悪いことも含めて僕にとっての「いなフリ」だし、成長させてくれた機会でもあったので書かせていただいた。
少なくとも「さのフリ」2期に関わった人で、ひとりとして手を抜いている人はいなかったのは事実。お互い本気だったからこそ許せないことも出てしまったんだと思う。
受講生にとっては人生を変えるきっかけになったと信じています。みんなの活躍はSNSなどを通して見守っているので、いつでも連絡ください。そしてまた、気が向いたら泉佐野に立ち寄ってください。
いなフリアフターのアフター
冒頭にも書いたように、今の僕があるのは間違いなく「いなフリ」のおかげ。間違いなく受けてよかったし、その後の講座や「さのフリ」もやってよかった。
反省はあるけど、後悔はない。だからこそ次を考えないといけない。
法人化して社長になったのもそのためだ。
「いなフリ」を受講して人生が変わったと感じたことは今でも鮮明に覚えている。自分の力だけで1000円を稼げた瞬間が本当の意味でのフリーランスのスタートだった。あの時の震えるような感動が今の自分の原点。
本気になれば、誰でも、いつからでも、人生は変えられる。
「可能性に挑戦し、成長を応援しあえる世界を実現する」
これが弊社のミッションであると同時に、僕の人生のテーマでもある。自分自身がまずそのミッションを体現することで、世界を少しでもいい方向に変えていけると信じている。
これからも泉佐野を拠点に挑戦し続けます。
もし泉佐野に興味がわいた方は駅前でコワーキングスペースRocksという拠点を運営していますので、ぜひ遊びに来てください!僕もだいたいそこにいます。
最後に、まだまだ未定ではありますが「さのフリ」3期ができるとしたら、今度こそ最高の「いなフリ」にしてやる。そんな密かな野望を発表しつつ、終わらせていただきます。
長々とした個人的な文章に最後までお付き合いいただきありがとうございました。文章の関係上、お世話になったのに、書けなかった方もたくさんいます。この場を借りて、御礼申し上げます。
ホンマに、あざした!!!