「自分の成功は自分で作っていくしかない」地元に根ざし、社長になった話【厄年ロングインタビュー・後編】
発達障害のひとつであるADHDが発覚し、「自分の成功は自分で作っていくしかない」と森下さんは覚悟を決めた。そして会社を辞め、フリーランスで自分の仕事を作っていくことに。活動の拠点に選んだのは、生まれ育った大阪・泉佐野だった。
泉佐野に戻った森下さんは、やがて2社の経営者となり、市との共同事業を実施し、移住者を増やしている。
前編となる六本木編に続き、旧知のライター・遠藤光太が、森下さんにロングインタビューを実施した。後編の記事では、泉佐野に戻ってから現在までを振り返る。
森下智司、生まれ故郷の泉佐野に帰還
「東京はやりきった」と思った。
「六本木でウェイウェイ言って遊ぶのも楽しかったけど、『じゃあ今何残ってんの?』と考えたら特にないんすよね。刹那的な楽しさはあっても、積み上がっていくようなものはなくて。身の回りのこと全てに『○』か『×』をつけていく作業をするなかで、東京は『×』だと思った。やりきった感覚もあったし、東京のスピード感だとじっくりやり直す時間もなかった。
一方で、生まれ育った泉佐野市は『○』だと思えました。地方都市とはいえ、人口が10万人ぐらいいてそこそこの規模があり、海と山が近くて、関西国際空港もあって、ポテンシャルが大きい。
正直なところ、実家もあるし、農業やってるから、最低限死ぬことはないなと。その中で、ハッタツフェスの感覚を胸に、何かできること探そうと考えてました」
サラリーマンの経験が悪かったわけではない。ただ、自分自身により合う場所を追い求めたのだ。森下さんは、サラリーマン時代に出会った人々に、今でも感謝の思いを持っている。
「サラリーマンという働き方は素晴らしかった。ひとりじゃ到底できない大きな仕事もさせてもらったし、恩を感じている人もたくさんいます。11年間のサラリーマン生活は本当に幸せな時間でした」
引きこもり動画編集期。10ヶ月で250本の動画を編集
社会で良いとされている価値観ではなく、自分自身にとっての「○」と「×」をつけてみると、ほとんどが「×」だった。それでも少しだけ残った「○」を大切にしながら、まずは住環境を充実させ、生活の基盤を整えた。
家業である農業に取り組み始める一方で、フリーランスとして農業以外の仕事も模索し始める。とは言え、具体的な仕事を決めていたわけではない。もし仕事を作ることができなければ、経験を活かして、近所の飲食店でのアルバイトから始めようと考えた。そんな状況でも、ハッタツフェスの終わりに見た光景を思い浮かべれば、進むことができた。
そんな時期に、仕事の声がかかる。「田舎フリーランス養成講座」(通称いなフリ。現在の名称は「ワークキャリア」)の合宿に、出張料理を振る舞うイベントでお呼びがかかったのだ。料理なら、本領発揮である。
いなフリとは、ライターやプログラマー、デザイナーなどのスキル習得プログラムを提供する講座だ。森下さんは出張料理を提供しながら、受講生たちと接することで、転機を迎えることとなった。
「受講生のみんなの話を聞いてたら、『僕もあとウェブの知識と営業さえ身につけりゃ仕事できるやん』って思ってたんです。もう家もあるし、農家をやってれば飯もあるし、あとはお金さえ稼げればいいってことでしょ。出張料理人で呼ばれて行ったら、次の合宿で受講生になってましたね」
東京時代からブログを書き、広告収入を得ていた経験があったため、最初はライター志望だった。しかしキャリアはどうなるものかわからないものだ。映像の仕事をしていた経験が、ここで活かされることになった。
「いなフリにはメンターの人がいて、『動画はできるんですか?』と言われて、『昔ちょっとやってたっすね』と。『じゃあ動画も視野に入れてやってみたらどうですか?』と提案されて、全然そんなつもりなかったんやけど、メンターが言ってくれたことだから、動画関連の仕事で営業をかけてみた。
そしたら、すぐにテロップ入れの仕事がもらえたんですよ。1本1,000円やけど。でもその1,000円を得られた経験が、めちゃくちゃ大きかった。僕単純やから、『じゃあこれの量をもっと増やしていけばいいやん』ってなるんですよ。
3月に始めて、1ヶ月目で4万7000円稼いで。それから年末までに250本ぐらい編集したんで、ほぼ1日1本ぐらい。3ヶ月目で本数も単価も両方増やしていったら、17万円。間違ってない、と思って、さらに量を増やして、単価も上げていきました」
キャリアには「計画的偶発性」が重要であることを提唱したのは、心理学者のクランボルツだ。キャリアの転換点では、偶発的な出来事がチャンスになる。森下さんは、映像に携わった経験を持ちながら、余白を残し、行動をしていた。だからこそ、まさに「計画的偶発性」によって、動画編集の仕事に行き着いたのだ。
森下さんは、子ども時代のように自宅に引きこもって、動画編集に明け暮れた。
「フリーランスになってずっと家に引きこもってても何も苦じゃなかったのは、六本木で遊びたいだけ遊んでたからかな。逆に今は、全くそういうのは興味ないんですよ。
自分のなかで『○』『×』をつける作業が終わってるから、自分の好きなものしか置いてない環境で。出勤も自宅の部屋を移動するだけだから、徒歩10秒。上司も部下もいないから、自分のことだけ考えていればいい。やればやるほど売り上げが上がっていく。
子どもの頃にハマっていたゲーム攻略みたいに、どうやってポイントを稼ぐかをひたすら考える。攻略していくことで得られる戦略性が好き。めちゃくちゃ楽で、楽しかった」
ここまでの森下さんは、自分のことを徹底的に知ろうとした。できないことを自覚し、それでも残ったものを大切にした。生まれ育った家に引きこもって、作業環境を最適化し、動画編集でお金を稼いだ。しかし心境の変化が訪れる。
「正直、家に引きこもって仕事をするのが最も捗ることはわかりました。でも全てを最適化していって、ちょっと攻略しすぎたんですよ。毎日同じ生活リズムで、同じ時間で作業してやっていくと、納品があって、お金が入る。ただの数字のようになってしまう。最適化しすぎると、ストレスフリー過ぎて何も感じなくなっちゃうんです。あえてノイズみたいなのを入れなきゃいけないと感じました」
子ども時代からのゲーマーっぷりを発揮し、動画編集の仕事を攻略してみると、そこには虚無があった。収入の目処も立ち、「ノイズ」の必要性を感じた森下さんは、旅に出た。
「車を買って、外に出始めました。バンライフみたいにして、山梨や千葉、東京に行って、フリーランスの集まりに出てました。
そして『動画編集をやってます』と売り込みまくった。動画コンテンツの市場は伸びているから、フリーランスの仕事として選ぶ人も増える。それなら、いなフリのなかでも動画編集の講座が必要になる。そのときに『動画編集と言えば彼だよね』と思われるポジション取りをしておけば、仕事もあるし、講師としても絶対呼ばれると読んでました。
それを言っていたら、『教えてほしい』と言う人が来たんですよ。1ヶ月ぐらいうちに泊まって、お金は受け取らずに、マンツーマンで一緒にやってみた。そこで初めて教えてみて、『俺、教えられるな』と手応えを得ました。
それで自信もついた頃に『動画編集のクラスで合宿やりますか』と声がかかったから、『ええ、私の出番ですよね!』と(笑)」
泉佐野市とともにフリーランス育成講座を作る
森下さんはそれから、動画編集と講座運営をベースにして事業を広げ、現在では2つの会社を経営している。それが株式会社ろっかくプロダクションと、Rocks合同会社だ。
株式会社ろっかくプロダクションは、森下さんのあだ名「ろっかく」を社名に冠している。もとからフリーランスで請け負っていた動画編集などをベースに、自分がやりたいと思える仕事だけをやっている。「森下智司が一生楽しく生きていくために、やれることを全部やる」が創業の理由だ。
「こういうわがままで自分勝手な会社があってもいいですよね。自分の好きなことで、できることがあって、喜んでくれる人がいて、お金がいただけるならそれがベストじゃないですか」
一方のRocks合同会社は、フリーランス仲間と共同で立ち上げた会社だ。泉佐野市から委託を受けて「ゴリラフリーランス育成合宿」事業を展開している。
「最初は泉佐野市のまちおこしイベントを手伝ってたんですよ。でも、それをやってみて疑問が湧いて。イベントは盛り上がるけど、イベントが終わったらみんな帰っていくやん。もちろん、そのイベントをきっかけに泉佐野のことを知ってくれて、移住したいって人は出るかもしれないけど、かなり少ないだろうと思った。
でも、僕が取り組んできたフリーランス向けの合宿やったら、1ヶ月ぐらい滞在して、お金を落としてくれることもあるし、愛着も湧いてくるし、『住みたい』と思ってもらえる確率は高くなる。
それで泉佐野でも、最初は市とは関係なく合宿を開いていったら、実際に移住者も現れてきたんです」
心強い仲間もできた。Rocks合同会社でともに代表社員を務める、岩本涼さんだ。森下さんは彼を「がんちゃん」と呼ぶ。
「がんちゃんは泉佐野にゆかりがあるわけではないのに、泉佐野のポテンシャルを理解してくれた。はじめは家がないから、うちの家で一緒に住んだりとかしててね。
はじめからめちゃくちゃ話が合って意気投合したんだけど、性格や得意分野は真逆。僕は動画が得意で文系の感情派。がんちゃんはプログラマーで理系の理論派。目指してる世界観がマジで共通してて、初めに喋った時からこんな泉佐野のことを評価してる上に、こんなにすごい人が来てくれたらもう絶対うまくいくやん、と」
それからは岩本さんのほかにも、仲間ができていった。移住者がどんどん増えていき、そうした取り組みを、泉佐野市長にプレゼンできる機会があった。
「僕らは泉佐野市に住んでて、代表の僕が泉佐野市出身で、東京での経験もあって、ウェブのこともわかってて、こういうチームを組んでるのは、やっぱり『私たちですよね!』と(笑)。目指してたことが、今はやっとできるようになってきているかな。
2022年の夏に共同事業が決まって、10月始まりの半年の予算がついたんですよ。半年のうちに、合宿を2回はしなければならない。だからなるべく募集期間を長く取って、2023年の2月と3月に設定し、会社も作った」
ゴリラフリーランス育成合宿には、実質無料で参加ができる。参加費がかかるものの、泉佐野で使えるポイントで参加費相当額を即日還元される仕組みになっているのだ。フリーランスとして活躍したい人にとって貴重な機会であるだけでなく、泉佐野市にとっても移住の促進や地元への還元などのメリットがある。そして森下さんたちも一緒に活動できる仲間が増えるという、“三方よし”の事業なのだ。
Rocks合同会社では、その合宿事業のほか、オンライン教育事業、コワーキングスペースの運営、そして合宿に参加したメンバーたちと引き受ける制作事業などを展開している。
泉佐野に未来を残していくために
人生を一度リセットし、余白を作ったことで、新たな仕事が舞い込み、視座が上がった。森下さんが今真剣に考えているのは、泉佐野の未来のことだ。
「ちょっとおっさんくさい話になっちゃうけど、次の世代へ、みたいなことを今は真剣に考えるんですよね。フリーランスで動画編集だけしてる頃には全くなかった。『お金さえ稼げればいい』と思ってたから。でも今は、次の世代により良いものを残していくこと、伝えていくことを考えます。
例えば、放っておいたらたった1年でも家の周りが草だらけになるわけ。東京なら業者さんにお金を払えばやってくれるけど、それをやってくれる人がいなくなってくる。地方では自分たちでやんないと、自然ってどんどん人間の生活を侵食してくる。あいつら強いっすよ、自然。ちゃんとお互いの線引きをしとかないと、どんどん侵入してくるので。
だから、“地方活性化”と言えるうちはまだ良い方なんです。活性化できるんやから。さらに次の段階にいってしまう危機感がある。つまり、残るか残らないか。ライフワークとして、一生かけて地元を残していきたい」
森下さんは、消防団や青少年指導員の活動に参加している。また、2024年からは教育DX支援員の職務も引き受けて、泉佐野市内の小中学校でITの導入を提案・指導している。
さらに、フリースクールの先生にもなった。「学校で全ての教育を賄うってそもそも無理やん」と考え、学校に通いづらい子どもたちに、自分の人生を伝えている。
「社会や人生を学んでいない子が社会に出て、めちゃくちゃ苦しんでいるのをたくさん見てきましたからね。学校の先生はあくまでも勉強を教えるプロであって、社会や人生を教えるプロではないから、じゃあ僕が社会や人生を教えることできたらいいんじゃないかなと思っていて。
僕は自分の経験や考えをいろいろ喋るんだけど、『これが絶対正解だよ』って言い方は絶対しないんですよ。あくまでもサンプルだから、全部が全部、信用しないでほしい。ただ、こういうことをやってきた人間がひとり、実際にいると知ってほしい。自分の生き方が誰かの応援になったら最高ですよね」
俺は俺という生き方のスペシャリスト
そして森下さんは2024年、結婚した。40歳での決断だった。
「彼女が大きな病気をしたんですよ。今まで通りの生活は送れません、というぐらいの大きな病気でした。普通は、そういうときってショックじゃないですか。確かに医者にそう言われた日はめっちゃ泣いたらしいねんけど、寝て起きて冷静になったときに『そうは言ってもまだ人生続いていくし、しゃあないやん』と彼女は考えた。医者に『じゃあ何やったらできるんですか』と聞いて、行動に移している。
それが『最高や』と思ってね。楽しいときは楽しいのは当たり前。でも、しんどいときに『しんどいけどなんとかしていこう』と考えられる人はめっちゃかっこいい。それが、結婚の決め手になりました。
一般的な『こういう夫婦がいいよね』ではなくて、『私たちはこういうのがいいんです』と一緒に考えて実行していくのが今すごく楽しいんです」
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インタビューには3時間半をかけて、森下さんのライフストーリーを聞いてきた。
筆者が彼と出会った2018年頃、森下さんはADHDの診断を受け、アクセルばかりで運転してきた人生ではじめてブレーキを踏んだ。それは、またアクセルを踏んで自分に合った方向へ進むために必要なプロセスだった。あの頃が、森下さんのキャリアや生き方にとって、いちばんの転機だった印象を筆者は受けた。
泉佐野に帰り、フリーランスでの仕事を模索していた時期には、具体的に何をするのかさえ決まっていなかった。しかし一度ブレーキを踏んでいたからこそ、自身にフィットする仕事が、あるべきタイミングで舞い込んできた。今では市との共同事業を行い、多くの移住者を呼び込んでいる。
最後に、森下さんがかつて書いていた文章を紹介したい。2007年に、mixiの日記で書いていた文章だ。17年も前から、現在の状況を予知できていたかのような文章だ。これからまたどれだけ状況が変わろうとも、「スペシャリスト」であることは、きっと変わらないだろう。
「俺は大阪にいようが東京にいようが、それこそ宇宙に飛び出しても俺であることができる。すべての面で人に劣ることがあったとしても、俺は俺という生き方のスペシャリストなんやからね!」
取材・執筆:遠藤光太
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