農村暮らしという厭世の先に見えてくるもの
あまり気が進まないが、選挙の話でもしてみようか。
▶新たな分断の発覚
基本はX在住民なので、そこで行われる選挙前~選挙後のあれこれを見ていて感じたこと。それは、やはり『現実社会との大幅な乖離』だ。
誤解してもらっては困るのだが、私は真っ当な人間ではないし、善良な一市民でもない。むしろ、過激派なアナーキスト寄りの存在なので、今みたいな社会など、一回ぶっ壊れてしまえばいいと思っている。その先にしか再生はないと。
そんな原理主義に陥らされてしまった原因の一つは、かつての農家時代に起こった出来事である『第三次農業大戦』……いや、第二次だったか?もはやどうでもいいが、あの時の理屈が通じない勢とのやり取りに起因する。
あの出来事で学んだ一番重要なことは、『世の中には理屈が通じない人が存在するし、彼らも民主主義の中では皆平等に一票の価値を持っている』ということだ。
エセ科学やら有機原理主義やらなんやかやのやり取りの中で、結局彼らは合理的に判断するのではなく、感情的に好印象な方(……もしくは、感情的に悪印象ではない方!)へ自らの主張を寄せるのだ。
その結果、まともな人間からは不思議な意味を持つ結論へと帰結し、自分の意見が真っ当だと思っていた人間が唖然として、不毛なまま平行線……という状況に陥るのである。
▶無知の知は大事
結局の所、私はあれでもう疲弊してしまった。
世の中には話しても分からない奴はいるし、ぶん殴って黙らせるしか意志の統一など不可能なのではないか?と。もしくは、理屈ではなく感情的に判断する人間の意志を変えるには、その感情自体を長時間かけて変えていくしかないのではないか?と。
あの時の科学談義でもそうだが、今回の選挙結果についても、『自らが合理的で頭が良いと思っている人ほど、その考えに囚われている』と感じた。自分は知らない、ということを知らないのだ。
そのため、あまり気が進まないこんな記事を書く気になってしまったのだ。
私のように意地の悪い人間が見た社会というのは、こんな世界だ。
最近、農村へ東京から移住してきた人と選挙の話になり、『私は投票をしない主義の人間だ。私にとってそれは時間の無駄だからだ』という主張をした。
するとその方は、色々と理屈をこねた上で『選挙に行かないなんて、社会人としてどうなんですか?』というニュアンスの主張をしてきた。
もちろん、対面でこんなことを直接言ってくるわけではないのだが、私が受け取った感覚はそのような印象だった。
一方で、私が初めて議員として町議会へ出席した時のこと。普段は雰囲気のいいお年寄りの先輩議員さんが、「新しいレプリコンワクチンの安全性はどうなんですか!?」と息巻いて質問しているのをすぐ隣で聞くという状況が訪れた。……その方は、共産党の議員さんだった。
思い返せば、私の両親も公明党支持者だった。創価学会員だったからだ。
彼らには、私の理屈は通じない。話せば話すほど、むしろ理屈っぽい奴だと嫌われるだけである。
「一体お前は何を言ってるんだ。そんな合理的なことを言われたって、私の不安は全然解消されないんだよ!」……そんな雰囲気を出されて終わりである。
Xで選挙に行こうと息巻いている人たちや、「ふ~ん、選挙行かないんですか~?」とドヤ顔で言ってくる人たちは、このような人々がいるということを本当に知っているのだろうか?
▶社会から離れることで客観的に見えてくるもの
上記のような人たちに共通しているのは、『選挙に行く俺たち偉いな~!選挙に行かない奴らって低級市民なんじゃね?』という選民思想の欠片であり、そしてそんな自分たちが選ぶ政党が、真っ当な政治を行ってくれる政党だと信じ切っている、という部分だ。
……彼らのこの部分に、私はれいわ信者と同じものを感じる。
そして自らのプライドを持っている彼らが、れいわや共産党が行っている一見ふざけたPRに対して、見下してバカにしたような意見を持っているのも見え隠れする。
……その結果が、これだ。
昔のエセ科学に対するインテリ科学者たちもそうだし、選挙へ行こう!と呼びかけるX民も、どちらも自分のいる世界が全てだと錯覚し、フタを開けてみたら、自らが知らなかった現実がそこに現れて絶望する。
その挙句、『選挙行かない奴は増税したり罰則作れよな……』と不満を言ったりするのだ。
一歩どころか、百歩ぐらい引いて見ている私からすると、どちらも鏡を見ているようだ。実に愚か。全く持って愚かすぎるぞ人類。
要するにこれらは、私の分析からすると全て『高度化した社会における弊害』だと考えている。
社会が高度複雑化し、都市化していくと人々は、『自分たちが直接手を動かさなくても、頼めば誰かがやってくれる』社会に依存する。この最たるものが選挙なのである。
自分がめんどくさくてやりたくない問題。それらは全て選挙によって政治家たちに任せよう。そうしたら、どこかで誰かが見えない所でなんかいい感じにうまくやってくれるだろう。
そしてその時間を使って自分たちはおもしろ楽しく、好きなことをやって生きていくのである……!という本音が透けて見えるのだ。だからイラっとする。
人口問題も一次産業問題も、高齢過疎化問題も何もかも、ここに起因すると考えている。そして人々は、都市へ集まるのだ。
なので私は、社会をもっとカオスで単純化したいと考えている。自分の幸せな暮らしは、自分が直接行動しないと手に入らない社会。……つまりは今よりもっと『自然な』社会。その方がマシなのではないか?と思うのだ。
だから私は今日も、農村でプレッパーなアナーキストとして生きていく。