「利他」に対する違和感
ずっと「利他」という言葉の使われ方に違和感を持っていた。
「自己の利益よりも他者の利益を優先する考え」
とある。
それがいつしか、他者に対する優しさとごっちゃになり、
自分のことより他者を考えることが良いこと、的な使われ方を方々でみた。
「今こそ利他」という、生き方提案、考え方提案。
むちゃくちゃ違和感。
違和感しかない。
他者のことを優先して考え、相手にとって有益な行動をとる。
ということは、翻って自分にも利が還ってくるのではないか。
とズーーーーーーっと思っていた。
どんなふうに還ってくるかはわからないけれど、
行為が起これば、その起因によって回り回って何かが還ってくる。
純粋な思いからの行動であっても、それによって得られる感情がある。
完全なる、つまり、一方的に相手の利だけになるようなことはないはずだ、と。
「利他」は本来仏教用語である。
空海は書いていると、若松英輔氏はいう。
「空海は単に「利他」と書いたのではなく、「自己利他」と書いています。
「利他」は「自利」と切っても切れない関係にある。さらにいえば、
「自利」こそが「利他」の土壌であるとすら空海は考えていたのです」
これこれー。
ずっと抱いていた違和感が解れたわ。
私は全ての行為は循環であると思っていて、
「自利のない利他」も単なる「独りよがりの自己犠牲」となり、
仏教的にはこれも否定される。
と平岡聡氏は書いている。
「利」というと金銭的なことをイメージしがちだけれど、
相手からもらう温かい気持ちも「利」だと私は思うから。
「自分さえ良ければいい」という考え方はもってのほかだけれど、
まずは自分がちゃんと生きることが、
結果的に利他につながる気がしている。
じゃあ、ちゃんと生きるって何やねん、って話なのですがw
自分が苦しいのに、利他なんてできるはずないもん。
「そうか、利他が大事なんだな」
と言って、自分を犠牲にして他者を優先していては、
結局「利他の自分に酔いしれる」
だけで、本当に意味での利他にはならない。
自分が健やかである、楽しく生きる。
空海がいう「自己利他」は、そういうことなんじゃないかと思う。
ズーーーーーーーと「なんか変やな」
と思っていたことが、ほぐれてよかった。
循環、すなわち、自分も他者もない、ってこと。
個体としては別だけれどね。
何となく、宿題やり切った感w
日々、そんなこと考えて暮らしてます。