【田中保】 キャンバスに油彩 など各種版画 査定 鑑定 買取 致します
田中保
キャンバスに油彩
◎田中保の芸術
田中保(たなか やすし、1886年5月13日生まれ、1941年4月24日没)は、埼玉県南埼玉郡岩槻町(現・さいたま市岩槻区)出身の洋画家で、エコール・ド・パリの一員として知られています。彼はパリの画壇でサロンを中心に、豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びました。第二次世界大戦中のパリで客死したため、その生涯は長らく知られていませんでしたが、近年になりその業績が再評価されています。
田中は旧岩槻藩士の家系に生まれましたが、1902年に父の死去に伴い一家は破産し、離散状態となりました。1904年、埼玉県立第一中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)を卒業後、単身で渡米しシアトルへ移住しました。皿洗いやピーナッツ売りなどで生計を立てながら、独学で絵画を学び始めました。1912年頃、オランダ人画家フォッコ・タダマの画塾に入学し、素描や油彩を学びました。この画塾では、洋画家の清水登之や野村賢次郎も学んでいました。
1915年、シアトル市公立図書館展示室で初の個展を開催しました。同年、アメリカ合衆国代表としてパナマ・サンフランシスコ万国博覧会に《マドロナの影》を出品しました。1917年、個展で発表した裸婦を描いた作品が風紀上好ましくないとされ撤退勧告を受けましたが、抗議文を発表して信念を貫きました。この個展は大評判となり、一日に千人もの来場者が訪れました。同年、詩人で美術評論家でもあるアメリカ人ルイーズ・カンと結婚しました。
1919年、北西画家展で出品した《秋の小川》が2等賞を獲得するなど、アメリカで画家として成功を収めました。しかし、さらなる高みを求めて1920年に美術の中心地であるフランス・パリに約100点の作品を携えて移住しました。パリでは画塾を開きながら個展を開催し、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・デ・ナショナル、サロン・デ・チュイルリーなどの展覧会に出品しました。1921年には《銅の花器》、1922年には《夜のセーヌ》がフランス政府に買い上げられました。1924年、渡仏中の東久邇宮や朝香宮夫妻が個展の出品作品の中から8点を購入しました。同年、リュクサンブール美術館に《渓流にて》が買い上げられ、ジュ・ド・ポーム(印象派美術館)に展示されるなど、パリでも画家としての地位を築きました。
1927年にはサロン・ドートンヌ、1929年にはサロン・デ・ナショナルの会員となりました。1939年、第二次世界大戦が勃発し、多くの日本人が帰国する中、田中はパリに留まり、戦火を避けながら定期的に作品の発表を続けました。しかし、1941年、ドイツ軍占領下のパリで病没しました。遺髪は夫人によって岩槻に届けられ、菩提寺である芳林寺に埋葬されました。
田中の作品は、出身地である埼玉県立近代美術館やサトエ記念21世紀美術館に多く所蔵されています。近年、他の美術館でも田中保のコレクションが増えており、2022年には埼玉県立近代美術館で大規模な回顧展が開催されました。しかし、同年にサトエ記念21世紀美術館が閉館となり、現在その所蔵作品の所在は不明です。
田中保は、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びました。彼の作品は、日本人としての繊細で鋭敏な感覚とヨーロッパの手法が見事に調和していると評価されています。その生涯はほとんど知られていませんでしたが、近年になりその業績が再評価され、関心が高まっています。
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