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もの語る法華経第4回 十如是再考
◆ 十如是は羅什の創作か いま、法華経を読む若い人が引っかかっている最大の問題は、十如是が梵文法華経にないということのようである。その箇所(通常五種法と呼ばれる)は、次のようになっている。
だから著名な学者さんでも、「十如是は羅什の改竄だ」「十如是は羅什の創作だ」と言うことを公言して憚らないのだから、それもやむを得ないだろう。
この問題を最初に提起したのは、本田義英博士であり、その発議は大
■『もの語る法華経』第3回 菩薩として生きること
◆ 再説、不可思議友人たちが、僕の所へやって来て言う。
「おまえの前回の不可思議に対する話は、まるでおっさんの与太話みたいで感心できない」と。
なるほど、そうだろう。僕としては、「妙とは不可思議を名づく」というのは「梵語を知らない者の誤読だ」と言う批判を、さらっと受け流したつもりだったが、そう言う中途半端な対応はかえって誤解を招くものだ。反省。
ただ天台智顗自身は、ちゃんと「不可思議」の定義
■『もの語る法華経』第2回 法華経の名前
◆法華経の名と人の振る舞い 今回は、法華経の名前を、僕がどのように捉えているかという結論からお話したいと思う。
妙法、サダルマを 「人の美しい振る舞い」と僕はみる。
蓮華、プンダリカを 「人の振る舞いの美しさを喩えたもの」とみる。
なぜ、このような捉え方に至ったかというと、青年時代にぶつかった日蓮の次の言葉に淵源がある。
この文は日蓮の在家の弟子である四条金吾がその信仰ゆえに主君から叱責