ススキノ首切断殺害-いち性被害者が思うこと -

とても情動が揺さぶられるニュースを見た。

社会生活を送る上で不都合な情動は普段、階層化された意識の中に追いやり、各階層に適宜閉じ込めている。
性加害者(実父)への恨み・憤怒もその一つだ。
しかし、普段いくら恨みを抑圧し閉じ込めても、それは症状となって私の身体や精神に現れる。解離、希死念慮、自己憎悪・・・
父親への恨み・憤怒を解き放つことを抑えているのは、私が父に対し何らかの暴力的な行動に出ると、自由に社会生活を送る身分を手放さなければならないという現実だ。
「普通の生活」を手に入れるためには、正当な怒りを閉じ込めておかなければならないときがある。怒りの封じ込めは精神障害を産み出し、私の精神は現実への捉われ(怨念)と現実からの遊離(解離)の狭間を揺れ動いている。


ススキノの #浦仁志 殺害事件、動機や背景は詳しくは知らない。ただ、「容疑者家族は他の道を選ぶべきだった」という声や容疑者家族の異常性を指摘する声が多くあがっている。

「容疑者の女性が #浦仁志 から性的暴行を受けていたなら、なぜその時に警察に行かなかったのか」
こういう発言をする人たちは、日本で性犯罪被害暗数がいかに多いかというデータを見たこともないんだろうな、と思う。ホテルに行くことに同意した女性の性被害届を警察がどう受け取るのか、性被害者の過去の性関係まで遡りしつこく聞いてくる事情聴取、被害の詳細を述べなければならない苦しみ、「処女でしたか」という屈辱的な質問、「快感を感じたか」などの二次被害質問、付着物がついた下着などの提出、更に、もし強姦犯に動画撮影されていたなら、その動画は裁判所や警察も視る事になる。一人の人間としての尊厳や性的プライバシーをズタズタに踏みにじられてまで警察に行こうと決意する女性は、多くはない。性被害者がセクシャル・マイノリティなら、なおさら足が遠のくと思う。

「(性被害の)処罰は司法の手に委ねるべきだった」
こういう結論を書く記者たちは、今日まで司法が性被害をどれだけ正しく裁いてくることができたか、或いは司法にどれだけ正しく裁く能力が備わっていたかを知った上での発言なのだろうか?

フラワーデモのサイトで4年程前の無罪判決がいくつか掲載されているので、抜粋する。

"被告人はその場にいた他の者から「被害者はあなたのことが良いと言ってるよ」ということを言われており、その気になった・被害者は被告人に明確な拒絶の意思を示していない"

"被告人の暴行は被害者の反抗を著しく困難にする程度のものであはあったが、暴行の程度が強いものであったとまでは認められない・被害者が抵抗できなかった理由は、精神的な理由によるもの・被告人からみて明かにそれとわかるような形での抵抗を示すことができていない"

引用元サイト:https://www.flowerdemo.org/blank

被告人と裁判官の目線が同じことにお気づきだろうか。
どうやら被害者は、被告人に理解しやすい分かりやすいやり方で、拒絶・抵抗を示さないといけないらしい。被告人から同意なしに性的接触が行われ、接触が継続された場合、被害者は加害者が容易に理解できるような抵抗・拒絶をすることが、司法よって義務付けられているのである。加害者が勝手気ままに他者の性的バウンダリーを侵犯する行動は、司法により管理されないのに、被害者の行動(性加害への反応)は司法により厳重に管理され、司法が定義する「抵抗・拒絶」が不足・欠如していると、加害行為の責任の片棒は被害者が担いでいたという判決が出る。

考えてみて欲しい。鞄をひったくられたときには、司法が定義する「抵抗・拒絶」を示さなければ、窃盗とはみなされないのだろうか。突然刃物で切り付けられたら、司法が定義する「抵抗・拒絶」を示さなければ、傷害罪は適用されないのだろうか。目の前に屈強な男が現れ、「財布をよこせ」と言われ、びっくりして震え怯えながら「どうぞお金は全部差し上げます。命ばかりは助けて下さい」と言ったら、それは金銭の合法的な譲渡になるのだろうか。

2023年7月13日に改正刑法である不同意性交等罪が施行された。今後裁判官たちは、改正刑法に従い判決を下していくだろう。今後の性犯罪裁判の動向を見守っていきたい。ただ、一つ言えるのは、改正刑法を活用するのは、上記のように、公平中立な判決を下す能力が無かった裁判官たちだ。いくら改正されても、法を扱う裁判官の歪んだ認知が矯正されない限りは、性被害者にとって公平な司法制度は実現し得ない。

「首を切断するなんて、猟奇的で異常だ」
このように声高に叫ぶ者たちも皆知っているはずだ、斬首刑・さらし首は、懲罰の一つとして、古代から現代まで世界各国で行われてきたことを。斬首刑・さらし首の執行者らは、今回の女性容疑者のように、世間から猟奇的・異常だとみなされていただろうか?いや、ただ単に懲罰を実行する者だと見なされていたと思う。刑の執行者(国家)が首切りを行う場合、それは正義であり容認される行動だが、個人が首切りを行う場合、それは猟奇的で異常な行動となるのだろうか。私は、首を切断することの是非を問うているのではない。ただ、斬首は我々人間が長い間自然に行ってきた懲罰である、と指摘しているだけだ。斬首の実行者が変わるだけで、斬首という行動の性質が変わってしまう(正義・秩序・正常→不正・猟奇・狂気・異常)のは理不尽ではないだろうか。
ご存じのように、首切りは、人間やほとんどの動物にとって致命的なものだ。酸素を含む血液が循環していない状態(脳虚血)では、10秒以内に意識がなくなる。興奮毒性により、酸素がない状態で3~6分後に不可逆的な脳損傷が起こる。首を切断することで確実に息の根を止めることができる。殺し損ねることもなく、今後二度と、 #浦仁志が戻ってきて、動画をネタにお金をせびってきたり、女性容疑者の家に押しかけてきたり、生活を脅かしたりすることもない。

もしも女性容疑者とその家族が、世間が主張する「別の道」を進んでいたら、どうなっていただろう。性被害を司法の手に委ねていたら、 #浦仁志 が撮影したと言われている強姦動画がネットにアップロードされたり、 #浦仁志 の知人の手に渡ったりすることを完全に防ぐことができただろうか。日本の犯罪取り締まり制度は、ひとりひとりの性被害者をそこまで守ってくれただろうか。私たち性被害者が傷つかないように保護してくれたのだろうか。

※この投稿は決して、暴力や殺人を促進するものではありません。ただ、現状のシステムから私たち性被害者がどのような扱いを受けてきたか、受けているか、受けるであろうかを考えて頂きたく筆をとりました。お読み下さりありがとうございました。

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Ray(れい)
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