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10年に渡る七転八倒から起きあがったことをここに報告申し上げる件

今宵もビール片手にまた号泣、その原因はお接待

2021年9月27日の夜。
リビングのソファ、片手にビール。

何気なく観たTV番組で、四国でお遍路をしようとする外国人留学生2名が、密着されていました。

私はそこで初めて「お接待」という文化を知りました。

お遍路さんに対して、飲食物や休憩所などを無償で提供すること。
サービスという概念ではなく「大師様への功徳」であり、人によっては「自分に代わってお参りを託す」という意味もあるそうです。

お金がなく、金剛杖(名称はじめて知りました)が買えない2名の留学生でしたが、出発の時に「お接待です、どうぞ」と手渡されていました。

そのあとも
「休憩どうですか?」
「みかんどうぞ」
とお接待が続きます。

それをぼぉーーーっと観ていた私。

なぜか不意にこみ上げるものがあって、気づいたら号泣していました。

番組内でお接待が供されるたびに涙が溢れました。
素敵なシーンながら、泣くほどのシーンでもないのに意味不明だなぁって思いながら。

なんだこれ…
なんなんだぁ…

あーー、でも、なんかすっきりした…

ビールもうまい。
スマホを開けば、今日も豚さんは順調です。

余談ながら、遂に★6の豚さんの育成に成功。
写真ご参照ww


なぜに?

泣き終わって、すっきりした頭でつらつらと考えていました。

この涙、なに??

たぶんですが、一つの大きな山を越えたように思うのです。
私自身の。

けっこう根深くしつこく絡まっていた呪縛が、この号泣とともに解放されたのだと、少し時間が経った今となってわかりました。

完全ではないかもしれませんが、急に身体(頭かな?)の一部が自由になった感覚があります。
とても不思議な感覚です。


超厄介なお子さまでした…

私は子どもの頃から気性が激しく、ものすごく自我の強い子どもでした。
しかも早熟であったがために身体も大きく、口も達者でした。

自分の主張が通らないと気が済まない。
自分が注目されなきゃ気が済まない。

いろいろなことが相まって、
「怖い」
「きつい」←関西弁でいう厳しい・激しい
と、散々言われてきました。

相手を泣かせしまったことも。
先生に煙たがられたことも。
みちるちゃんはキライや、と言われたことも。
知らない間に友人が離れてしまったことも。
同級生の親御さんに陰口を言われていたことも。

我ながら、周囲のこの反応は仕方ないと思います。
子ども時代の私は、私でも友達にはなれないww
それくらい激しい子どもだったんですよね。

それでも、ですね。

周囲の反応は、強い痛みを伴って子どもだった私に刻まれました。


優しくなければならない、という強烈な呪縛

子ども時代の数々の痛みは、私のなかに
「優しくなれ!優しくなきゃだめだ!」
という全自動拡声器を生みました。

もともとの気性(これが何かはここでは置いておきます)と、優しくなければならないという呪縛。

私のなかにある全自動拡声器は
「人に優しくしろ!」
と、事あるごとに大音量で連呼します。

でも、もともとの気性って、抑圧という方法では決して治めることなんてできないですよね。

ある特定の場面や関係性などにおいて、
歪んだ形で表出するよになり、
自分自身をうまく扱えないことが増えていきました。

かっとなって口調が強くなる。
必要以上に主張する。
相手の言い分を否定する。
態度で示して相手を拒否する。

優しくなきゃいけないのにできない自分。
まわりの人たちはみんな優しい。
多くの人が大人で知的で、成熟しているのに、
私はなんでこんなに単純なことさえできないんだろう。

些細な場面や相手の反応を切り取っては、
優しくないという罪悪感をもつ。
またできない自分に幻滅する。
相手から嫌われるじゃないかと恐れる。

もともとの気性と、呪縛と、反射的に生まれる感情とが複雑に入り混じって、一層強く私をまとわりつきました。


一応いろんなことをやって七転八倒…

こんな風に呪縛について書きつらねると、これまで何も気づかず放置してきたように思われるかもしれませんが、こんなんでも、けっこう色々やってきたんですよ。

HR業界なので周囲にはその手のことに精通している方も多く、自己啓発のオリジナルメソッドを展開されている方も結構います。

少なくとも10年くらいは「自分をなんとかするための取り組み」はやってきたんです。

この「優しさについて何とかしたい」感も当然扱ってきました。
手を変え品を変え。

そのたびに私の中で、一応着地はしていたはずなんですよね。

振り返ると、着地は多くの場合(ぜんぶではない)がこれ。

『 私は今も十分に慈愛をもった人間であって、
  たくさんの人に愛されている 』

なんかそれらしい感じ。

いや、そんなことはないのよ、私!
と自己否定に走るには多少学んでいるし、何よりちょっと悲しすぎる。

あの、私もそこまで多くの人に嫌われているわけじゃなくて、
うまく言えないんですけど、
でも、なんか、ちょーっと違うんです…

という感じで、やっぱり、腑に落ちないんです。
時間が経つと埋めきれないズレに気づく。
時間が経つと再びモヤっていきます。

そうこうするうちに、
格納庫に収まっていたはずの例の自動拡声器が再び登場するわけですよ。

「優しくない奴は誰だぁ!
 優しくない奴はゆるさぁぁん!
 優しくなれぇーーー!」

そんな状態はやはりしんどいので、何とかしようとわちゃわちゃすることになり七転八倒。
「立て、立つんだジョー!」の一人芝居を無観客でやり続けて、早10年くらい経ちました。

長いよ…


思いがけず急に解けた

実はお接待号泣の前日26日に、ボス(Futurist、AIテクノロジスト、認知科学のコーチ)の新プログラムが実施されました。そこでの感情的な揺らぎがターニングポイントだったようです。
詳細は割愛しますが、私もお邪魔にならない程度に参加させてもらいました。

参加者さんのお話をお伺いして、私のお話にもリアクションいただき…
そこでぐわぁっと出てきた感情というのか、感覚というのか、声というのか、がありまして…

もちろん、それまでに大量のセッションを受けたり内省したり悶えたりしたものが帰結した結果だと思いますが、これまでにない言葉だったので印象深く、きっとずっと忘れないでしょう。

それが

【優しくありたい】

でした。

え、なんか微妙?
いや、そんなこたぁない。

【優しくありたい】

あれ、なんかボディソープのCMみたいや。

いや、けっこうまじめに。

これまでは
【優しくなければならない】
とリフレインしていました。

この言葉って、相手との関係性において
相手を傷つけないように優しくしなければならない。
そうすることで自分は好かれなければならない。
嫌われる自分ではダメだ。
というhave toを何重にも自分でこじらせて、最後にまるっと包摂した言葉であった感があります。

それが、はじめて私自身の「望み」の形で表出したのでした。

ただただ自分の望む姿を描いたときに、私のMindは【優しくあること】で多くが満たされることに気づきました。

【自分のために優しくありたい】

お、悪くない。

人に対して優しくあることと
自分に対しても優しくできることは、同じ。

そんな意味のことって、よくよくよくよく言われていると思うのです。
その感覚が、いよいよ、遂に、私のところに来た感があります。

もう一度言います。

Repeat after me.

【自分のために優しくありたい】

あなたも使ってええで。


で、冒頭のTVのお話に戻るのですが…

お接待をしている人たちの姿は、私にとって「優しくありたい自分をそのままにいる人たち」だったんですね。

だから、不意に琴線に触れて反応したのだと思います。


優しくありたいって一悶えしてみたら…

変化があったんです。

これまでは、何かあると思い出すのは、自分が優しくなかった振舞いイコール懺悔すべきことや、自業自得的に自分が傷ついた経験・場面でした。

それが
優しくありたい
を自覚したら、これまでに私のことを
・優しい
・温かい
・愛情深い
って言ってくれたたくさんの人や声がフラッシュバックしてきたんです。

けっこうたくさんの人に言ってもらってきたんだなぁと思いました。

不思議です。

だから、とっても遠回りしましたが、
『 私は今も十分に慈愛をもった人間であって、
  たくさんの人に愛されている 』
が、これまた、いよいろよ来た感じですねん。

みんさん、
唐突なんだけど、こういう事情なもんで、言います!


ありがとぉーーーーー


更なる変化は、一期一会の他人の振舞い

なんですけど、ちょっと息切れしたんで、また改めてNoteしますのでよろしくお願いいたします!

このNote、27日の夜から書き始めて、27日中には一通り仕上げっていたんですけど、公開がなかなかできませんでした。

自分以外の人からしたら、一人の未熟な人間が小さく悶えていただけのお話なので、示唆があるわけでもなく、え…だから?みたいだよなぁと。

でもまたいつか例の拡声器が格納庫から引っ張り出される日のために、残しておいてもいいかなぁと思いまして。

戯言にお付き合いいただき、ありがとうございました。



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