戯曲「父と暮らせば」
「父と暮らせば」、井上ひさしの晩年の晩年の名戯曲だ。ボローニャ公演や映画で見たことはあるが生舞台は初めてだ。ストーリーは広島で原爆被曝した親子、死んだ父親と1人ひっそり生きている娘の1週間の共同生活を描いたもの。井上ひさしさんの小説は、中3から高1にかけて自伝的青春モノをたくさん読んだ。手鎖心中、四十一番の少年、モッキンポット師の後始末、青葉繁れる、、、懐かしいなあ。特に後者2編は大好きだった。後々モッキンポット師とは遠いご縁があったことを知るのだが。
さて、この芝居の主題は原爆の悲劇を通じた平和の大切さと親子の情愛だ。僕は常々後者に弱く今回もついに嗚咽してしまった。少しだけ内容に触れると原爆落下直後に焼死した父の亡霊が、廃墟となった広島のあばら家で1人暮らしする娘の下に現れ同居し始める。父は3年経っても被曝のトラウマ冷めやらぬ娘のことが心配でならない。そして娘が仕事中に出会った青年との恋が成就するよう、恋の応援団長と称して何度も現れてはユーモラスに娘にアドバイスする。
2人の会話はその話題を中心に平穏に進行してゆくが、最後の最後の場面で原爆への悲しみと怒りを介した2人の親子愛が激しく交錯する。娘は父を助けることができなかった罪悪感に苦悩し続けており、父親もそんな娘を大きく深い愛で包み込み解放しようとする。ラストシーンの激しくも剥き出しの親子枠に納まらぬ相克に、観客はステージ上の2人に釘付けとなった。僕個人も何があろうとも娘を思いやる父親の天文学的な愛に同期した。
井上ひさしは原爆という日本人しか体験したことのないオンリーワンの出来事を、世界中の次世代に伝えてゆく義務があると言いたかったのではなかろうか。それが証拠にこの脚本は世界中で翻訳され舞台も海外で数多く公演されている。すでに被曝経験者がどんどんいなくなってゆく中で、真実を伝えられる人がいなくなる。井上さんは彼の仕事である文芸を通じてそれを口伝したかったのだろう。残されるべきだった文章や写真、映像も一部しか無く、多くは芝居の中でも言われていたようGHQにより廃棄もしくは隠蔽されたそうだ。以前から不思議だったのだがSDGsにはなぜか平和や戦争放棄については記されていない。その分野で社会起業家として活躍している人々は世界中にたくさん存在しているのだが…(日経BP社刊「社会起業家という仕事」参照)しかし現実は広島原爆投下から77年経った今も核戦争のリスクは潰えず、国際紛争や内戦も常にどこかでオン・ゴーイングだ。そして戦争とは直接無関係の人々が今も苦しみ、命を失い続けている。
戦争によって死んだ人々は天国でどう思っているのだろう? どのみち人間は致死率100%だ。生物学的には死んだ時点で理由に関係なく全てが終わりなのだろうが、無念にも他者意思に巻き込まれる形で死んでいった市井の人々もそうなのだろうか?そんなことをつらつらと考えながら帰途についた。