本を読む理由:読みづらい版
箇条書き以外を練習するための文章
その為読みやすくしてないし読まなくていいです
私は本を読む。今はそんなに読んでいないけれど、子供の頃はいわゆる図書室の子で、教室に馴染めない分の学校の楽しみを図書館に期待する人間であった。とはいえ不登校や教室外登校をしていた訳ではなく、ただ一人だっただけの子供。ここでは本を読む意義と私なりの読書理由、あとは読書歴でも簡単にまとめておこうかと思う。自己の正当化みたいなもんでもある。
幼少期の読書に関しては運動ができなかったのも大きい理由だ。幼稚園でだって絵本を読んでいて庭での遊びには参加せず、小学校では校庭で鬼ごっこが嫌すぎて教室で本を読んでいた。暗。
子供は意見がコロコロ変わるから苦手だった。自分も子供だからなんだけど、本を読んでるとその中にいる人達は明確な主張を曲げない人物や理由がわかりやすい変化をする人物が多い。でも同級生の変化は分からん。ただ気が変わっただけ、家で親に注意された、私のいない所で友達と喋って考えが変わった、みたいな、私の知らないことが多すぎて把握出来ないし。教室全体で物語を構成している訳でもないからとにかくしっちゃかめっちゃかで子供の頃はずっと「人、めんど……」と思っていた。
今でも人は苦手だ。好きだけど。悪意向けてくるし、すぐ無くなるし、把握しきれなくて怖い。大事にしきれてないのがいちばん怖い。対人スキルが「壊滅的→だいぶ苦手」まで治ったのもだいぶ最近のことで、ことあるごとに「人、こわ……」と思っている。更には自分のことも分かっていないので全部論文に起こしてくれと思っている。
本旨とずれたが私は人と話すより本と話す方が得意で、でもそれは不幸なことでも幸福なことでもないと思っている。ただそう育っただけなので。友達がいないから本を読むようになったのか、本を読むことを生活の軸にしたから友達がいなくなったのかは分からないけど子供の頃の読書はそれだった。読みたいから読む、というより、そこに本があるから読む、みたいな当然として有る生活の軸。今は、本を読む人間でよかったと心底思う。同じくらい「本を読まなくて済む人間」も幸せそうだとは思う。これは後述。
私が本を読む理由、今は「読まないと空っぽになってしまうから」だ。説明は難しいが、インプットがないとアウトプットもできないというか、自分で世の中の出来事や人に興味を持つことが至極苦手なので「本」という興味のあるコンテンツを通して作者の考えや発想、語彙を身につけ自己と成している。
とはいえ、現実で知り合った人の考え方を入れていくという事が多くなってからはそれも大量には必要じゃなくなった。多少似たような人としか会わないとはいえ色んな人の考えを聞いたり言葉から推測したりするのは楽しい。人に引きずられることもあるけれど、それは本も一緒だ。そう考えると自分の考えは本当にあるのだろうか?と思う。自意識は自分と相手の間にあると、誰かが書いていたな。そうやって同じようなことをみんなが考えているのは面白い。
すーぐ話がズレる。「本を読まなくてもいい人間」の話をしよう。身内にもかなり居る。友人には文学人間とまではいかずとも物語の摂取が好きな人間が多いので珍しいといえば珍しいが。彼ら曰く「教科書以外で本なんて全然読まないな」。家に本棚がない人、本当に驚く。良いとか悪いとかではなく私には必需品なので。
私も最近はあまり本を読むとは言えないので、本を読まない時間にゲームをし、出かけ、ぼーっとし、携帯を見ていることは分かる。でも「一年に一冊も小説を読まなくて平気」というのはどういう事なのか?本、読みてぇーってならないのか?概ね理解はできるが共感、ひいては実感できない事象である。
私が勝手に考えた、彼らが本を読まなくていい理由の一つに「彼らは孤独でないから」がある。多分。羨ましいよ……。どういうことかと言うと、彼らは友人や家族、恋人との会話でインプット・アウトプットを充実させるのである。そうすれば本と自分との対話が必要じゃなくなる。活字よりドラマとか映像の方が好きだ、って人ももちろん居るだろう。
今思ったけど「孤独じゃない」って事はインプット/アウトプットの手法が会話にフォーカスされてるってことだ。つまりそれがドラマである人、アニメである人、旅行である人、つまりはいわゆる「趣味」や「退屈しのぎ」がどこにあるかって訳で、まぁ、本は彼らの趣味じゃないって事なんだろうな。深く考えなくてもそうなんだけど、どうしても私には「子供の頃からずっと本を読まなかった」人がよく分からなかったので考えていたんだ。
要するに「なぜ本を読まなくてもいいのか」は考える必要があんまりなくて、なぜならその理論は「なぜ本を読まなくてはいけないのか」に結局帰ってくるからだ。本を読む必要がある条件以外の人間は本を読まなくてもいい人間ってことだ。どういうこと?分からんけど次は本を読むある意味逼迫した理由を考えようと思う。
なぜ本を読まなければいけないのか?さっきの反証で、それは私が孤独だからだ。孤独で不安で無知であるから本を読む。そうやって生きてきたからだ。私は孤独で、人は人で不安定だし変わっていくから一人を永遠に支えにすることはできない。もちろん人がいないと私は心も体も生きていけないけれど、人では「足りない」となった時に本は大きな支えになる。私が一人である時に物語の世界が私に寄り添い、私が不安であるときに物語の勇気が私の背中を押し、私が無知であるときに物語の賢人が(あるいは作者が)私を諌める。
さらに本は今だけでなく、過去の、未来の孤独や不安をも助けてくれる。「物語の追体験」というもので、これは物語だけでなくエッセイや学術論文でもいい。例えば過去の孤独、独りであった嫌な記憶を虐められていた人のエッセイが「独りなのは一人じゃない 頑張って耐えたこと自体が偉い」と肯定してくれる。今の課題であれば人間関係に悩む人が物語中に同じような状況の人間を見つけて、同じような感情が描かれていることに安心するかもしれない。未来であれば、昔読んだ本の追体験になる。昔は理解できなかった作中の葛藤に現実で追い込まれた時、こうなるのは私だけじゃないと思えるし、解決策までも見えるかもしれない。
追体験、というのは読書において中々キーワードだと思う。彼の言っていた言葉、あの行動、本で読んだなと現実を本の知識から分析したり逆に体験したことのある事を読んで世界にこの苦しみを抱えているのは一人じゃないと思ったり。私たちは本から現実へ、現実から本へ追体験をする為に本を読む。のかもしれない。
そして同時に叶わぬ思いを本で擬似的に叶えるのだ。イケメンとの恋、ドラゴンを倒す旅、命と引き換えの愛。現実では叶わぬ壮大で美しく極端な物語は想像力を満足させるにふさわしい。活字かどうかという問題で、これは物語であれば全て同じ、ドラマやアニメ、漫画、映画なども。強いていえば、活字であればより「自分の世界」に寄せることが出来る。映像化の権利がこちらにあるのだから。映像より思考が静かで自分寄りになるという感じかな。本よりも映画などで感情を動かされやすい人もいるだろう。それは完成されているので受け取りやすいという事なのかな。音楽や光、動きがあると世界を感じやすくていいよね。
私は文章の方が印象に残りやすい。か?少なくとも映像と同じくらいには文章からの情景が脳内に残る。想像力が高いというと聞こえがいいね。妄想が好きなんだ、王獣に乗って空飛びてぇ〜。
本ってのは、単純に効率がいい。小説の漫画化とかを見ていてもわかるけど、1冊の文庫本が3~4冊の単行本になる。それがアニメ化すれば12話×24分だ。完全に掛ける時間が伸びているし、それだけ映像化が運営側の仕事になっている。もちろんコンテンツに貴賎はないけれど、時間効率と映像化を権利として考えるならばある意味効率もエンタメ性も高いのは活字の本だ。
ただ私は漫画もアニメも(ドラマはあんまり見ないが)物語を提供してくれるコンテンツはなんでも好きだ。ゲームも人も物語を提供してくれる。漫画のアニメ化、小説の映画化は脳内映像との違いやマッチングを楽しめるし迫力が増すから最高だ。上手く行けばね。
他にも風景描写や人物の表現なんか、小説の醍醐味だ。私の敬愛する上橋菜穂子先生の「鹿の王」から季節の表現をいくつか持ち出してみよう。
(秋)「夏の頃には低く地を這うように留まり、なかなか暮れることがなかった太陽が、いまは、するすると暮れ落ちていく。」
(春)「ふと、頬に当たる日差しの色が違うことに気づく頃」
(秋)「うす青い天に、さっと刷毛ではいたような雲が浮かんでいる。」
……ちょっと語彙力高すぎない???マジびっくりなんだけど。私は語彙力が低いので映像で見れば「夕方だあ」「暖かな日差しだあ」「爽やかな晴天だあ」くらいにしか思わないところを、小説家は情緒やら日常感やらをたっぷりに書いてくれる。すごいぞ小説家 偉いぞ小説家 いつもありがとう小説家!!!!
疲れた一旦終わる
本読みたいなあ
本読みたい時、なんか泣きながら(泣かないけど)本読みたいなあって言ってる気がする。お母さんの料理食べたい、って感じ。一人でも平気だったあの頃に帰りたいのでしょうか。急に何?私一人とか絶対嫌なんだけど(情緒不安定)
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