方向音痴じゃないのよ
方向音痴の人などいくらでもいるだろう。珍しくもない。俺は自分がそうかはわからないが、行きたいとこにはちゃんと着く。が、そこはどこなのか、駅からどう来たのかはちゃんとはわからない。事前に、後で道順を説明せよ、とオーダーされていれば、できる。
よく、方向感覚がまともな人がそうでないかもしれない俺に教えてくるのが、「太陽なんかを見て、方角を把握しとけば。」というのがあるが、方角くらい把握している。太陽の方角や風向き(仕事柄、場所の3時間おきの風の強さと向きはだいたい把握している)から方角なんか余裕だ。
目印になるものを覚えておけば?というのもよく聞く。なるほど、それは随分有効だ。が、ここで衝撃の事実をお伝えすると。そもそも、その場所にそんなに辿り着きたいとは思っていない。また、目印もなにも、見たいものを見てるだけで歩いているとも思っていない。家の中や周りを歩いているのと同じ緊張感。そして、同行者がいる場合、その人との話に夢中か、歩みを合わせているだけ。同行者がなくても、周りの人に合わせて歩いているだけの時間がある。どうだろう。こんな人が、目印など認識して、時系列に配置していると思うか?
俺などは、自分の通っていた小学校の職員室には正門からか運動場からしか行き方がわからなかったし、みんなが「南館」と呼ぶ校舎は、ついに卒業するまで、いや、今もどれかは知らない。中学校など、わが町の端っこにあったはずだが、どこなのかは説明できない。校門の前に電柱があるのが目印だ。高校にいたっては、在学中ずっと新校舎建造、旧校舎取り壊しの工事をしていたこともあり、あらゆる敷地内の建物の場所がわからないし、職員室は行き方もしらない。渡り廊下も特定の入り口からしか辿り着けない。部室というか更衣室と武道場だが、そこは余裕で行ける。地図すら描ける。こう行ってガタンて行って、靴脱いで、まっすぐです。
また、俺の道案内は独特な場合があるらしく、以前訪れたラーメン屋や焼肉屋に再び行く場合、ナビゲーションを頼まれると(当時、Googleマップはないし、カーナビも学生の車には付いてなかった)、国道を北上して、ずーっと行くと、このまま行ってもいいんかなぁて気分になったら右側にあるとか、東にすすんで、霧が出てきたら右折か道なりか、右っぽく曲がって、しばらく行くと左にあるとか、そんな具合だ。
自分で運転していても、目的地をたいしてしらべもせず、ずんずん行きたい道を行って、不安になるとだいたい左折する。これで、どこへ着くというんだ。奥さんや友達に「左じゃないからねー。」と言われるのがストレスだ。
さて、最近ではカーナビはもちろん、Googleマップのようなアプリがあり、実に便利だ。これらを使って初めて感じた感情がある。ちゃんと目的地と道程、現在地が記されるため、まだ着かない、道間違えた、と感じることだ。なるほど、これが方向感覚保持者の抱く感情か。迷われるとイラッとくるのもちょっとは分かる。が、あの、結局何処にも着かず、ぐるぐる、随分長いこと行ったり来たりして、なんとか帰宅だけはする、という旅がなつかしい。そう、迷ってなんかいない。方向音痴なんかじゃない。旅してるんだ。行き先はわからないけど。