虫草 万庭苔子


 ノックの音がして、ぼちぼち行きましょうかという声がした。はいと返して立ち上がる。いいぐあいに雨は上がったようですが寒いです、と続けて言うのが聞こえた。薄手のダウンジャケットの上からレインウェアを重ね着して、さっき借りた長靴を履きドアを開けると、暗闇のなかに丸い眼鏡がきらりと光った。ぶか、ぶか、と間抜けな音をたててバンガロー前の階段を降りていくと、長靴のサイズ大丈夫ですか、と顎のところにポワポワとヤギみたいな髭を生やしたガイドが言う。はぁたぶん、とわたしは答える。足を踏み出すたびにふくらはぎのところに空気が吐き出されるのが変な感じだがとくに当たるところもない。ガイドの傍にもう一人やや小太りの男性が立っていて、さっき光ったのはこの人の眼鏡だった。やはりレインウェアの上下に長靴という出で立ちだ。大きなレンズをつけた本格的なカメラをぶら下げている。こちらは山下さんです、とガイドが男を紹介した。ここに来る車のなかで、他の人は現地集合です、と聞いていた。もう少し大勢参加者があるものかと思っていたが、どうやら客はわたしとこの丸眼鏡の二人だけのようである。それじゃあ行きましょう、しばらく林道を歩きますから足元気をつけてくださいね。何が入っているのか大ぶりのリュックを背負ったガイドが先に立って歩きだした。

 バンガローから少し離れるとすぐに砂利道に出た。一気に暗闇が濃くなる。ガイドが前方を懐中電灯で照らしてくれているが、足元はおでこにつけたヘッドランプの灯りが頼りだ。これも長靴と一緒に貸してもらった。初めて使う道具だが両手はポケットに入れたままにしておけるのでなかなかいい。一日中降り続いた後だから道はぬかるんでいる。ところどころ降り積もった落ち葉に足を滑らせたりしてどうしても遅れがちになる。ガイドはもちろんだが丸眼鏡もこういう道を歩き慣れているようだ。今日はまた一段と暗いですね、月が隠れてるから。ええ、でもそのほうが条件はいいんで。前を歩く二人の会話が聞こえてくる。ここ数日大きな群生がいくつか出てるって小屋の管理人さんが言ってましたよ。そうですか、じゃあ今夜は期待できるかな。

 十五分ぐらいと言われたが、かれこれ二十分ほど歩いたころに、あ、と丸眼鏡が小さく声をあげて木立のなかに駆けだした。あ、ありますねとガイドが言ってライトを消した。ほらあそこ、見えますか。おでこのランプを消してガイドが指さす方向に目をこらす。二メートルほど先の暗がりにぼんやりと緑色に光るものがある。丸眼鏡はすでにその光る物体に張りつくようにしてカメラを向けている。

 足先で地面を確かめながら少しずつ近づいていくと、まっすぐに伸びた木の幹に淡い緑色の丸い光が鈴なりになっているのが見えてきた。丸眼鏡が興奮気味にシャッターを切っている。邪魔にならないよう少し離れて眺めていると、こっちにもありますよとガイドに教えられて数メートル移動する。丸い緑色の光が、大きなあぶくか水ぶくれみたいにびっしりと幹に沿って上のほうまで続いている。むしょうに皮膚が痒いような気がしてくる。なかなかのものでしょう。ガイドが言った。顔を近づけてよくみると光っているのは襞の部分で、本体は椎茸によく似ている。なんか美味しそうなキノコですね。と言うと、毒です、食べられません。とガイドが生真面目にヤギ髭を揺らした。

 しばらくぼんやりと緑の光を眺めた。丸眼鏡はまださっきの場所で熱心に撮影を続けている。じっと動かずにいると、ぼぅぼぅ、と低い声で鳥が鳴いた。ときおりバサバサと激しく枝葉を揺らすような音もする。きょっ、きょっ、と正体のわからない甲高い声もする。寒い。厚着してきたつもりだが、じっとしていると足元から冷気がどんどん上がってくる。ポケットから手を引っぱり出して擦り合わせ息を吹きかける。手袋が必要だったな、と思う。防寒対策を忘れずにと案内メールに書いてあったのに、市内ではこの時期に手袋をすることもなかったから思いつかなかった。

 なんで自分はここにいてこんなことをしてるんだろう。今さらながら思う。このツアーに参加を決めたのはほとんど衝動的だった。キノコにとくに関心があったわけではないし山歩きなんてしたこともない。今夜、というのだけが決め手だった。

 週末の夜をひとりの部屋で過ごしたくないだけであれば他にいくらでも選択肢があったのではないか。オールナイトで映画とかひとりカラオケとか。でもそういうのはよけいにわびしくなる気がした。なにかもっと非日常的なこと、これまで経験したことがないようなもの。そんな思いでSNSを眺めていたときにたまたまこのツアーの情報が流れてきた。〈ファガスの森で光るキノコを見るツアー〉。森の名前もキノコが光るというのも、そのキノコの名前がツキヨタケというのもお伽噺めいていて、気がつけば申し込んでいた。今思い出すと、夢のなかのことのように思える。

 それにしても寒い。もう限界だ。トイレにも行きたくなってきた。ガイドはさっきから辺りを落ち着きなく歩き回っている。茂みの下あたりをがさごそとかきまわしているのを見つけて、そろそろ帰りたいと伝える。山下さんはもう少し撮影を続けるというので、わたしだけ先にバンガローまで送ってもらうことになった。

 森から林道へ出てまもなく、ふいに周囲が明るくなった。雲間から月が半分顔を出していた。砂利道の凹凸がくっきり見える。あ、と言ってガイドが突然しゃがみ込んで、灌木の茂みに頭を突っ込んだ。ごめんなさい、ちょっとだけ待っててください。小さなスコップをリュックから取り出し地面を掘り始める。よし、やったぞ。降り積もった落ち葉をかき分けて丁寧になにやら掘り出した。大事そうに手のひらにのせて差し出す。ヘッドランプの光のなかにひと株の白っぽい草のようなものが浮かび上がる。サンゴのように枝先が分かれた茎の先にはいくつか花のように見えるところもある。なにか珍しい花ですか? いえ、キノコです、ここ見てください。土にまみれた根本の部分をガイドが指さす。蛹、見えますか、蛾の蛹。えっ? これはハナサナギタケ、チュウソウの一種ですよと言った。チュウソウ? ええ、虫の草と書いて虫草。虫にキノコが寄生したものです。とりつく相手は蝉や蝶、蜘蛛、蟻、カマキリ、ゴキブリにいたるまで菌によっていろいろ。虫を栄養にして育つわけです。この茎のように長く伸びている部分がキノコの子実体、胞子を出す部分。ここから胞子を飛ばして受精相手を探す。この段階になったらもう虫のほうは吸い尽くされて中身は空っぽです、ほらなんとなく透けて見えるでしょう。ガイドは嬉々として蛹を指さす。はぁ、わたしはただ頷いた。実はぼく虫草屋なんです。ガイドが言った。虫草を探し求めてあちこち歩く人のことだという。お金になるんですかと訊くと、あいまいに首を傾げる。まあ趣味ですね、冬虫夏草という種類ならまあ市場もないわけではないけれど、他は。でもねぇなかにはびっくりするぐらい美しいのもあるんです。オサムシタケっていうのはね、緑色の甲虫の仲間に寄生して脚や触覚から細い蔓を生やすんですがまるでペイズリー柄です。トンボの全身にヤンマタケが生えたのなんてモダンアートみたいですよ。取り憑かれたようにしゃべり続けるガイドの顎の下にポワポワ生えている髭までが子実体に見えてきた。寒さが堪え、下腹が痛む。はぁ、なんぎなものですね。わたしが言うと、ガイドははっとしたように口をつぐんで、手にしたものを丁寧にタッパーにしまうとリュックに入れて歩き出した。いつの間にか月はまた雲に隠れてしまって辺りは墨のような闇に塗り込められていた。

 キャンプ場のわずかな灯りが見えてきたときには、現世に戻ってきたような気がした。バンガローの前で簡単に明日の打ち合わせをして、それじゃあぼくは山下さんのところに戻ります、と言ってガイドは去って行った。消灯時間を過ぎていたから小屋に電気は灯らない。ヘッドランプをつけたままなかに入ってまずトイレに駆け込んだ。生理が始まっていた。荷物のなかからナプキンを取り出しふたたびトイレへ戻る。痛みが激しくなる前に鎮痛薬を飲まなければ。子宮内膜症と筋腫のせいで毎月ひどくつらい。

 暗い流しの前に立ちコンロに火をつけた。冷え切った身体を温めたいところだが、バンガローに風呂はない。やかんのそばで悴んだ指先を温めていると、かすかな音が聞こえる。カチカチという何か硬いものがぶつかる音だ。流しの前の窓辺に置かれたサイダーの空瓶から聞こえているようだ。ヘッドランプを向けると、黒くて小さい甲虫の類が動いているのが見えた。口の狭い空瓶に入り込んで出られなくなったのだろう、上に向かって羽ばたいてはガラスにぶつかって底に落ちるというのを繰り返している。こんなに寒くなってもまだ虫がいるのか。瓶を持ち上げライトを当てると、虫は底に張りついたまま動くのをやめた。

 沸いた湯をテルモスに満たし残りの湯は流しの栓を閉めて注いだ。蛇口をひねって水を足しほどよい温度にした湯に両手を浸すと、ほぅと思わず息が漏れる。テルモスの蓋にティーバッグを入れてお湯を注いだ。ポケットからスマートフォンを取り出す。電波はあるらしい。お茶を啜りながらSNSを開く。新しい写真がアップされている。豪勢な料理、しゃれた造りの和室、窓の外に見える露天風呂、見慣れた男女の浴衣姿。

―祖谷渓谷に来てまーす。誕生日のお祝いにだんなさんが連れてきてくれたの。離れもお料理も最高、でも一番のプレゼントはお部屋の露天風呂とふたりきりの静かな夜♡♡

 リプライ欄には〈ステキ!〉〈ラブラブ〉〈うらやま〉などいつもながら無意味な言葉が並んで〈ウフフ、子作りがんばってネ♡〉という書き込みもあった。

 バカ、全員まとめて死ね。撃ち抜くように声を発し画面を閉じる。毎日のように更新があり自撮り写真もよく上げるから、あの男と結婚した女がどんな外見で何を食べてどこに出かけているのか、なんでもよくわかる。プロフィールに書かれた誕生日は今日十月一日、偶然にもわたしと同じ。年齢はたぶん十くらい下。

 下腹部に差し込むような痛みが走った。どろりとした塊が降りてきた感触があったのでまたトイレに駆け込む。

 残りのお茶を飲み干して蓋を洗う。瓶に目をやると虫はまだなかにいた。もう飛ぶのはあきらめたのか今は羽も広げず、けんめいにガラスをよじ登ろうとしている。少し進んではつるつると滑り落ちてまたすぐに登り始める。無限の刑を科せられた囚人のようだ。

 そんなにがんばって外に出なくてもいいんじゃない? どうせすぐに冬になって死んじゃうんだし。出てもキノコにとりつかれちゃうかもしれないよ。やつらは生きて動いている虫にもつくんだって。生きたまま養分を吸い尽くすんだって。

 やだやだ怖い怖いと身震いをしてすぐに、まあでもキノコに養分にされる蜘蛛だって他の虫を食べるんだから、と肩をすくめる。食物連鎖。カマキリなんて交尾した後のオスまで食べる。子孫を残すための栄養にするらしい。つきつめればすべての生物は繁殖のために生きている。人間の男も虫と同じ、繁殖の本能によって動かされている。より多くの女、それもなるべく若い女と交わりたいという欲求は生物としての本能なのだ。より旺盛な性欲とすぐに妊娠できる生きのいい子宮を持っている個体のほうが、自分の遺伝子を残すのに効率がいい。女のほうも自分の価値がそれだけとは考えもしないのだから負けず劣らず愚かだ。

 下腹にまた強い痛みが走った。這うようにして痛み止めを取りに行く。規定量では全然効かない。倍の量の薬を飲んで寝袋に潜り込んだ。芋虫のように身体を丸めていても手足は冷たいまま、むしろ深部に冷えが入り込んでいく。どろりどろりと海水が凍り始めるように、自分の内部がゆるやかに粘度を増していく。

 こんな痛みに耐え続けるくらいならもう子宮ごと取ってしまいたい。妊娠なんてできなくていい。いっそ選択制になればいいのに。せめて誰でも簡単に無性生殖できるようにしてほしい。生殖に振り回されて一生のたうちまわるよりも、確実に自分だけの遺伝子を繋いでいけるシステム。虫草には無性生殖もあるんです、とガイドは言った。こいつら虫にとりついてまで胞子を飛ばそうとするくせに、相手がみつからなければ受精しなくても繁殖できる。人間よりずっと進んでいるでしょう?

 わたしも虫草になりたい。子宮に巣くったこの小さな塊。今、その表面を穿って針の先のように尖ったものが現れる。それはみるみる伸びて細い一本の茎となる。茎はそのまま内膜を突き破り背中を突き抜けて、やがて先端に美しい花を咲かせる。そこからたくさんの胞子を放とう。相手をみつけたものは受精し、受精しないものもそのまま風に乗ってとりつく相手を探す。若い子宮を持つもの、若くない子宮を持つもの、子宮など持たないもの、相手はなんだってかまわない。すべてを吸い尽くし養分にしてまた新しい命を送り出すのだ。あとに残るのはからからに干からびた殻だけ、吸い尽くされすっかり空洞になったわたしの殻。

――ナンダ、ケッキョクハオマエモフエタインダ。

 小さく黒い声がした。息つぎをするアザラシのように寝袋から顔を出すと、部屋の中がぼうっと明るい。窓から白い月の光が差し込んでいる。かすかな羽音が聞こえた。 

                                〈了〉

四百字詰め原稿用紙換算・十五枚

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